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『不動商会』と云えば、この神戸福原で知らぬ者は居ない程に名の知れたやくざ一家であった。表向きは運輸業を営むものとしているが、その実態は荷役の人夫を多数抱えている義侠心と仁義を重んじる家風は、古くよりこの港町に根付いたものであった。
その跡取りである一人息子は、この家に生まれた者として相応しい腕っぷしと貫録を持ちながら、しかしこれまでの風潮は古臭いものとして忌避していた。代わりに金を至上のものとする主義の下に揮われる手腕は、今の時流に合っていたのだろう、結果的に不動の家の力を増幅させるものであった。
この『洋食屋・賀須都』はそんな不動商会の息の掛かった食事処だった。表向きは大衆向けの、評判の良い店と名が通っていた。昼時という事もあって店内はそれなりに賑わっている。そんな中、一番奥の席に案内された二人組の元に店主と思しき男がやって来て熱心に頭を下げていた。
「堅気さんが見てるんだ。そういう真似はやめておけ」
男のうちの一人が店主にそう云った。件の不動商会の跡取り、御年二十五歳となる不動 竜司(フドウ リュウジ)その人だった。抗争の最中で作られた立派な体格と幼少期の賭場で負った頬の傷が、ただでさえ獰猛な笑みに一層の凄みを与えていた。

「俺が金を落とさねぇと。金は天下の回り物だろう」
そう云って便宜を図ろうとした店主を軽く往なして追い払った。一連のやり取りを見ていたもう一人の男が竜司に向けて言葉を掛ける。その口調には、やくざ者である男相手に一切の恐れも諂いも無かった。
「事業はそれなりに回っているようだな」
「見栄が張れなくなったら、こういう商売は終わりだからな」
不敵な顔をしてみせる竜司に「変わらんな」と男は返す。彼の名は岩田 義武(イワタ ヨシタケ)。帝国陸軍に籍を置く軍人であり、竜司と同じ年に生まれた彼の幼馴染だ。姿勢の良さは彼の軍役で培われた見事な体躯を引き立てている。生真面目そのものといった風体の中で、眼鏡を掛けていても隠しきれない左目の傷跡が人目を引いた。
生まれた家が隣同士であった二人の付き合いは二十年以上になる。成人してからはやくざ者と軍人という異なる道を歩んだ彼等だが、長年の歳月で結ばれた友情は未だ途絶えてはいない。尤も、それぞれに抱える仕事や事情は一筋縄でいかないものが多い。顔を合わせない期間も随分と長いものとなった。今回は竜司からの誘いが発端で、こうして再会するに至った。この店を指定したのも彼だった。
「手前の方はどうなんだ、義武? 随分会うのも久しぶりだが、良い面構えになって帰って来たじゃねぇか」
目の傷は少なくとも竜司が最後に顔を見た時には無かった筈のものだ。顔色を変えず、義武は小さく溜息を吐く。
「お前のその面でそれを云うか? 色男は違うな」
戦場での負傷の結果、視力にも僅かばかり後遺症が残った。腕が落ちぬよう訓練は続けているとはいえ、剣を揮う軍人として戦場の第一線は退かざるを得なくなったのは痛手でしかない。ただ、それを揶揄された処で今更動じるものでもない。ましてや相手は同じように顔に傷を持つ幼馴染だ。違いねぇ、と竜司はふてぶてしく笑い、義武は溜息を吐いた。
「多少視力は落ちた。日常に支障はないが、戦うには些か心許ないのも確かだ」
「そうは云うが、お前の腕っぷしはこの辺りじゃあ飛びっきりだ。軍人で稼げなくなったら俺の処に来いよ」
良い仕事を紹介してやるから、と。そう持ち掛けられたのは今回が初めての事ではない。久方ぶりに会った際の挨拶代わりのようなものだ。義武がこの誘いを本気にした事もまた、これまで一度も無かった。
「まだ其処まで困った事になっていない。……ビフカツを頼むが、お前は?」
「俺はオムライスを。大盛りで」
通りかかった店員に声を掛ける。竜司の正体を知らないであろう店員は和やかに注文を受けて、去っていった。
「可愛らしいものを頼むんだな」
「何だ、褒め言葉か? 卵に飯を包むってのは良いもんだぜ。全部一遍に喰っちまえる。時間っていうのは金に代えられねぇ。だから俺は時間を無駄にする奴は苛つくし、時間を無駄にしないで話を切り出す奴は好きだ」
些か乱暴なきらいはあるが、竜司の持論は正論でもある。少なくとも義武にとっても理解の範疇内のものだった。生真面目に頷いて、それこそ竜司の持論宜しく時間を無駄にしない話の切り出し方をした。
「今回はただ昔馴染みと話をする為だけに、わざわざ食事の約束を取り付けたのか」
「それも無い訳ではねぇが」
そう云って、少しばかり改まった態度になる。太い眉を僅かに結び、真っ直ぐに義武の目を見て口火を切る。
「一つ、お前に頼みがある」
「頼み? お前が、俺に?」
「ああ。俺がお前に、だ」
この男が、他人に改まって頼み事とは珍しいと義武は思った。大抵の事であれば己の力だけで何とでも出来るだけの手腕も立場もある男だ。舎弟達を使う事も出来る筈だ。それなのに、わざわざ義武を呼び出して頼みとは。
「明日は槍でも降るんじゃないか」
「槍が振ったらお前のその腕で払ってやってくれよ、軍人さん」
とは云え、竜司自身も珍しい事だという意識はあった。
「お前に……いや、お前だけじゃない。金を払わねぇで他人に『頼み』なんて言葉を使うのは久しぶりだ」
独り言ちるように零し、その後にぃと口の端を持ち上げる。如何にも裏家業に通じているといった表情だ。これまでの付き合いの中で、竜司からの『頼み』が並大抵の事でなかった試しがない。過去の諸々を思い出し身構えた義武であったが、幼馴染が告げた言葉は彼の想定を遥かに超えたものだった。
「手に入れたい女がいる」
この時、義武は目だけでなく耳まで可笑しくなってしまったのかと思った。あの不動 竜司が、己に対して、女の事で相談等と。いよいよもって天変地異の前触れかもしれない。相談する相手を間違えているのではないのかと、喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込んだ。
「お前がそう云うとは。一体どんな女なんだ」
「堅気じゃねぇよ。商売女だ。だが、どうにもスレてねぇ女でな」
微かに穏やかな色が滲む。しかし直ぐに思案気な声色へと変わった。
「金で解決出来りゃ良かったんだが、どうもそれだけでは上手くいかねぇ女なんだ」
「お前が其処まで云うような遊女か……この福原界隈で、それ程の女となると」
曲がりなりにも不動商会の長である竜司が、正攻法では手が出せないと云う遊女とは一体何者なのだろう。そう考えて、すぐに思い当る名前があった。軍部のお偉い方の中にも執心する者が多いと噂になっている高嶺の花。その声を聞いた者は居ないとされている高級娼妓。
「珠屋の『人魚姫』……名前は確か『静流(シズル)』と云ったか」
珠屋はこの港町では珍しく不動商会の傘下に入っていない、寧ろ関係があまり宜しくない派閥の系統だ。義武の推測に「なんだ」と竜司は厳つい肩を竦めた。
「お前の耳にまで入ってるって事は、彼奴は余程名の売れた女なんだな」
その返事は肯定と同義だった。当人はあっけらかんとした様子だが、義武としては未だに信じがたいものであった。『静流』の様子がここ最近少しばかりおかしいと嘆いている上官の名は何であったか。よもやその原因がこの男だとでも云うのだろうか。
「……滅多にない美人だと、それと中々に曰く付きの遊女だと。巷で噂になっているくらいの事は俺でも知っている」
「そんな大層な女じゃねぇよ。俺にとっては唯の女だ。俺にとっては、な」
ただ、と。その時の竜司は、目の前に居る幼馴染ではなく、あの日に出会い、別れた彼女の面影を見ていた。
「他に代わりは見当たらないな」
その声色は、義武でも今迄の竜司から聞いた事の無いものだった。やくざ者であり荒事に慣れ切っている男とは縁遠い筈の、柔い優しさや愛おしさといったものが滲む声だった。何だかんだと云いつつも本質では情を重んじる男である事を義武は良く知っていた。か弱い存在を見捨てられない詰めの甘さは竜司にとって決して欠点ではない事も。嘗て、捨てられた子猫を拾い育てたように。今回の件もそれに近いものがあるのだろうか。
「猫を拾うのとは訳が違う、というのは分かっているよな?」
竜司が拾った猫達、その内の数匹は岩田家で天寿を全うした。けれど、犬猫と人間を同等の扱いが出来る筈も無い。しかし『猫』という単語で竜司が思い出したのは、あの朝に見た静流の仕草だった。
「拾った猫は手前の処で面倒を見てもらった事もあったが……今度は俺が拾って、俺が養いてぇんだよ」
この男が、一人の女と添い遂げたい、と。本気なのだと嫌でも知れた。
では、竜司の云う『頼み』とは。
「だからな、義武。俺はあの女を攫う。その為に、お前の力を借りたい」
最早これは相談事などと云う微笑ましいものではない。強烈な惚気と犯行声明だ。止めるのが筋であるのは誰が見ても明らかな事だった。しかし、正論を重ねるくらいで引き下がるような相手ではない。過去最大級の竜司からの無茶振りに、義武は内心で途方に暮れていたのだった。

 

 

 *****

 

 

二人の背後の席では、一人の青年が秘かに聞き耳を立てていた。
大きな肩掛け鞄に立襟の襯衣に袴姿という格好は昨今の正しい学生の姿そのものだ。それなりに良い布地と仕立ての品は、彼の生家が大阪で名の知れた繊維問屋であるが故のものだ。事実、彼は今年二十歳になった現役の大学生だった。何処か少年らしい愛嬌が滲む、人好きのする雰囲気を持っている。丸眼鏡を掛けた聡明そうな面立ちは、しかし背後から聞こえる会話に隠しきれない好奇心を湛えていた。
堀川 清(ホリカワ キヨシ)がこの時『賀須都』に居合わせたのは偶然でしかなかった。家業を継ぐ為に商業を学ぶべく大学に入った。其処で出会った教授から勧められるままに日本各地を遊学し、最後に訪れた土地がこの神戸福原だった。表向きは件の教授のお使いだが、書物だけでは学べない様々な経験は彼にとって得難いものであった。しかし時間は有限。そろそろ卒業の準備に本腰を入れなければならないと関西に戻ってきた。
憂鬱な気分を抱きつつ、大阪に帰る前の小休憩としてこの港町でこの店に入ったのも偶然だ。評判が良いと巷の噂は聞いていた。地元で幅を利かせている裏家業の息が掛かっている店だという事も。それらを聞いていながら、しかし清はあまり深く考えずに、敢えて云うのなら何かに呼ばれたような気がして、この店に入った。其処に明確な理由はない。
店の新メニューであるというグラタンを頬張る。海鮮の触感と出汁が利いていて美味であった。それなのに価格は学生の身分である自分にとってそれほど厳しいものではない。大衆向けでこの品質を保てるとは。商業を学ぶ人間としてそれも気になる処ではあるが、今の清にとって重要なのはそれではない。
最初は、妙に威圧感がある二人だと思うだけだった。後ろ姿しか見えないが、男二人の体格は清には比べ物にならない程鍛えられているものだった。一人はどうやらやくざ者で、もう片方の男は軍人。二人は付き合いの長い友人らしい。それだけでも十分に濃い。
金は天下の回り物。時間は金に代えられない。聞こえてきたその持論もまた、清にとっては納得のゆくものだった。本題はその後だ。先程の持論を唱えていた男が持ちかけた相談というのが清の興味を強く引いた。やくざ者の男は遊女に恋をしたのだと云う。どうにも曰く付きらしい遊女に心底惚れ込んでいるようで、彼女を攫う手助けをしてほしい、と。
人の恋路を邪魔する者は碌な目に遭わないというのが世の通説だが、正直これ以上に傍から聞いていて愉快な話もそうそうない。顔も知らない相手ではあるが、上手くいけば良いと思っているのも事実なので大目に見てもらいたい、というのが堀川の本音だった。
「でも、まさかなぁ……」
関西訛りの小さな声は周囲の喧騒に消える。ちらりと背後の男の気配を伺って、清はまだ温かいグラタンをもぐもぐと咀嚼した。
やくざ者と云いつつ、捨てられた猫を拾ってしまうような人柄らしい。それに付き合わされている友人もいるようだ。妙な巡り合わせがあったものだと小さく笑う。旅の最後の思い出としては悪いものではないのだろうが。
ふと、まだ中身の残っているグラタン皿から視線を上げる。着物姿の男が、店員と思しき相手と何やら話をしている。かと思いきや、男は店員の持っていた、これから席に届けるのであろう料理の二皿を取り上げてしまった。横取りという訳ではなさそうだ。男はまるで店員と代わるかのように料理を持って此方――正確には清の背後に居る二人の方へと真っ直ぐに足を運ぶ。
その途中、男と清の視線がしっかりと重なった。
男がにぃ、と美しく笑う。その瞬間、清の背に何とも形容し難い嫌な予感が伝った。
もしかしたら、自分はとんでもない事に首を突っ込んでしまうのではないのだろうか。そう思うも全て後の祭りである事を、彼は直ぐにその身を以て知る事となるのだった。

 *****

 

 

竜司からの『頼み』に義武が秘かに絶句した、丁度その時。
「お待たせしました。大盛りオムライスとビフカツで御座います」
注文の品を届けに来たという声が掛かる。しかしその声の主は明らかにこの店の従業員ではなかった。年齢は二人よりも幾つか上だろう。着流し姿の、品良く整った面立ちの男だ。少し長めに揃えた前髪から覗く流し目には何処か色気が滲む。にこやかな表情としなやかな動作がまるで猫のような印象を与えた。容姿については申し分ない。ただ奇妙な点があるとするのなら、大事そうに布で包まれた三味線を背負っている事だろうか。
「何だ、兄ちゃん。手前この店の者じゃねぇな」
眼前に置かれたオムライスを一瞥し、胡乱げに竜司が睨む。大概の人間が恐れ戦いて立ち去る顔にも男は笑みを崩さなかった。
「いやぁ、ねえ。こんな処で、そんな話をしていちゃあいけませんよ。『不動の若旦那』?」
竜司の背景を知って声を掛けきた男は、一片の躊躇いも淀みも無く己の身を明かした。
「どうも。『珠屋』の跡継ぎ――御後田 奏一郎(ゴゴタ ソウイチロウ)と申します」
渦中の人物、その縁者の突然の登場に義武は軽く目を見張り、竜司は声を上げて笑った。
「そうかい。奇遇だなぁ、珠屋の若旦那。どうだ、一緒に飯でもどうだ?」
「では、二人分の席をお借りしてもいいかな」
元より机は四人用のものだ。店主が竜司に気を利かせて案内した席であったため余裕は十分にある。二人という事は連れがいるのかと思いきや、奏一郎は自身の注文したハンバーグステーキの皿と共に竜司の隣へと腰掛け、義武の隣に三味線を置いた。ビフカツにナイフを入れながら、人知れず義武は奏一郎に対して顔立ちの割に結構な変人だという評価を下した。警戒心を解く理由にはなり得ないものだ。
「盗み聞きをしていたのか。随分な趣味だな」
「同じ事をもう一度云いますけどねぇ。こんな処でそんな話をしていちゃあ、聞き耳を立てる鼠も居るってもんですよ」
切り分けたハンバーグステーキの欠片を口に放り込み、それをきちんと飲み込んでから奏一郎は自身の後ろへと声を向ける。
「ね? 其処の眼鏡のお兄さん」
背後で、ビクりと跳ねた肩があった。数秒固まり、やがて観念したように其処に居た青年が三人の方へ振り返った。
「ああ、バレてもうたか」
清の滑らかな関西弁が其処で一度止まる。理由は竜司と義武の顔付きだろう。三人の耳に小さく悲鳴を呑む音が聞こえた。揃って体格が良いのは後ろ姿だけでも分かっていた。それぞれの身の上も会話から察しは付いていた。しかし、まさかここまで顔面の作りが穏やかとは程遠いものであるとは清の想定外だった。あんな純文学な発言をしていたとは思えへん、と内心で呟く。流石に初対面で其処までいう事は出来ないが。
「だってあんな面白そうな話してますもん。気になりますやん? 続き聞かせてくださいよー」
とはいえ、声を掛けられてしまってはもう通りすがりを決め込む事も難しい。それならばと、彼ははっきりと話を聞きたいという欲求を清は露わにしてみせた。しかし、自分達相手に怖いもの見たさで突っ込んで来る事の出来る青年の無謀な度胸は、少なくとも義武にとっては俄に信じがたいものだった。命が惜しくないのだろうか。
「出歯亀とは随分な度胸をしている」
「いやだって、云われんかったら此処まで出歯亀しようなんて思いませんよ。でも其処のお兄さんに云われてしもうたら……もう正面から聞くしかないじゃないですか!」
飄々とした風体の男を指して云ったその姿勢は完全なる開き直りだ。下手に誤魔化して逃げようとしたところで無駄な話なので、ある意味では最も賢明な判断であるのだろうが。
竜司の目が清を一瞥し、奏一郎へと向く。
「珠屋の若旦那。この鼠はお前の仕込みか? なかなか面白い事を云うから黙って聞いてたが」
この界隈で見る者が見たら震え上がるであろう笑みを浮かべて竜司は云う。対する奏一郎もまた何処か愉快そうに笑い軽く首を横に振った。
「そんな事をする訳ないじゃないですか、旦那。それに」
其処で一度言葉を切り、それまでとは違う真剣で力強い声に切り替える。
「僕の相棒は、その三子だ!」
三子とは現在義武の隣に鎮座している三味線の事らしい。「そちらで持っているか?」と義武が隣に鎮座しえいた三味線を渡せば「ありがとう」と奏一郎は受け取った。ハンバーグの皿を少し横に逸らすという徹底ぶりだ。
誰に勧められた訳でもなく、ごく自然にその空いた席に清が腰掛けた。
「そない云われたって、仕込みも何もないんやけど。えっと……貴方は御後田さん? 珍しいお名前してはりますねぇ」
「そういう君は堀川君? 堀の川なんて、花街にぴったりの良い名前だね」
「え、何で名前を!?」
素直に驚く清に笑い、奏一郎はある一点を指差す。鞄からはみ出た手拭いには『堀川 清』と書かれていた。それを見た竜司が「良い名前だなぁ」と青年の名前を舌先で転がした。口調には笑みすら含んでいる。しかし、だからこそ凄みの利いた声色は聞くものを震え上がらせるには十分なものだった。
「で、その何処の馬の骨か分からねぇ堀川 清クンが、何だって? もっと話を聞きたいって?」
「いや……だって、その……」
顔だけでなく全身に冷や汗を掻きながら、やがて清は銀製の匙を手にしたまま、全てを諦めたように頭を下げた。
「正直に云います! なんや面白そうな恋愛話をしとるなって思ったんで! 話を、ちょーっとだけ聞こうとしたら、その、こんなにアレな感じやったとは思わなくて……」
あまりにも清々しい告白である。堅気の人間ではないと分かっていただろうに。それでも気になってしまったのだと。『好奇心は猫を殺す』という諺があるが、今の清の状態がまさにそれだった。そもそもこの神戸福原界隈で不動の人間相手に好奇心で首を突っ込もうという命知らずな者は居ない。余所者であるが故の不運だと云わざるを得ないのは哀れであるが。
卵で包んだケチャップライスを大きく一口。それを飲み込んだ竜司が不意に席から立ち上がり、堀川の背後に立つ。がしり、と。厚く固い掌が、明らかな圧を以て薄い肩の上に掛けられた。清の持っていた匙が机の上に落ちる。
「な、何でしょう……?」
「いやぁ、堀川クン。良い処に来てくれたよ」
錻力が軋むような音が聞こえてきそうなぎこちなさで背後を伺う清の、その顔色は青い。それを気にも留めず、少し芝居がかった調子で竜司は喋り続ける。
「俺は不動 竜司って云うんだがなぁ、此処まで恥ずかしい話を聞かれちまったら、そいつと縁を切って『ハイ、左様なら』って訳にはいかない身の上なんだよなぁ」
再度肩を強めに掴んでから離す。しかし解放されたからと云って、清がすぐに動けるはずもない。その隙に竜司は堂々と堀川の荷物を物色する。直ぐに彼の学生証を見つけ出し「へぇ」と楽しげな声を出す。
「見てみろよ。大阪の商科大学だと。こりゃあ、随分と頭のお宜しい事で」
見かけと行動の割に、と云っては失礼だろうが。竜司の行動を止めなかった二人が少し意外そうに清を見る。大阪にある市立大学の評判は神戸にも届いているものだった。更にこのご時世で大学に通えるという事は当人の頭の出来だけでなく、家がそれなりに裕福であるという証でもある。所謂高等遊民という立場だ。
しかし当人は相変わらず、竜司の挙動に対して「ひぃ」と小さく悲鳴を上げて震えている。
「ちょっと今は大学休んで? 教授に頼まれてあちこち見て回っとったんですよー……」
何かを云っていないと持たないのだろう、聞かれてもいない己の身の上を喋り出す。聞いていた竜司は明るく笑いながら、数度清の肩を叩く。
「そりゃあ良い先生だ。そうだ、堀川クン。君に良い人生経験の場を提供してやろうじゃないか」
それは、清には決して選択権の無い提案だった。人の弱み、或いは逃げられない事情を握り、己に従わせる。不動 竜司の得意とする手管の一つだ。
「この三日くらい、俺の処で金が稼げる仕事をしてみる心算はないか? 何、全く難しい事はない。専門的な知識も不要だ。その身の上一つあれば十分だ」
誰がどう考えても悪い予感しかしない仕事の斡旋だ。断るべきなのは明らかだが、そうすれば別の意味で己の身を危険に晒す。
助けを求めるように清の視線が泳ぐ。義武の方を見れば、一言。
「此奴相手に出歯亀なんて命知らずな真似をした君が悪い」
諦めろと切って捨てられた。やくざ者相手にも拘らず逃げずに自ら踏み込んできたとあっては救いようがない。きちんと云い終えてから、義武は最後のビフカツの一切れを口に入れた。
「えぇー! そんな事云うなら巻き込んだのはこっちの人やないですか!?」
名指しされた奏一郎は、いつの間にか包みから出していた三味線を鳴らし、にこやかに返す。
「聞いてしまったからには仕方が無いよね」
聞き耳を立てていた君が悪いと、こちらもまたにべもない。美しい音色の余韻が何処か一層の悲壮感を漂わせていた。
「好奇心がどういう結果を招くか。手前くらいの歳なら、そろそろ味わっても良い頃だろう」
孤立無援とは正に今の清の状況を云うのだろう。挙句竜司は手持っていた清の学生証を自身の懐へと仕舞い込んだ。
「此奴は手前がまともな仕事をしたら返してやる」
「あの、そろそろ卒業……単位が不味いので、なるべく早く返してくれるとありがたいんやけど」
「ンな事知るか」
云い捨てた竜司はこの時点で既に清の事を完全に己の配下として見ていた。唯一救いがあるとすれば、この不動 竜司という男は横暴であると同時に仁義を重んじる気質も備えている事だ。余程の事がなければ無為に使い潰す事も無い。とはいえ、それを清が知る由も無いが。
最早どう足掻いても逃げられないと悟った、賢いが少しばかり軽率な節のある哀れな青年は半ば自棄になったように己の状況を受け入れた。
「あー、はいもう! 半端に巻き込まれるくらいなら、もうその方がマシやわ! 毒を食らわば皿までや!」
それでも改めて一同に対して「堀川 清です。宜しくお願いします」と挨拶が出来る辺りは中々に礼儀正しい。何処か憎めない雰囲気も、彼の育ちの良さが滲んでいる所以だろう。
竜司が唇の端を吊り上げる。傍から見れば獰猛極まりない顔付きを、再度奏一郎へと向けた。
「これで此奴の始末は付いた。あとは御後田サン。あんたと話を付けるだけだ」
そう云ってから、竜司は奏一郎ではなく義武の方を見た。
「なぁ義武? これは好機だと思わねぇか?」
「……お前がそうだと思うのなら、そうなのだろうな」
溜息のようなものを吐いて眼鏡の位置を直す。少しばかり不機嫌そうに見える顔は義武の素の表情だ。しかし、どちらにしてもこの場に居合わせて傍観者という立ち位置はあり得ない。それならば、と。義武は奏一郎がこの場に現れた時から抱いていた疑問を口にした。
「珠屋の跡取りと云ったな。店の遊女を攫おうなんて話、店側の人間からしたら面白いものではないと思うが」
三味線を愛おしげに撫でる仕草には一切触れずに問うた。義武の疑問は道理なものだった。店随一の高級娼妓を攫おうなどと、それも相手が不仲の家の人間であるのなら、妨害の理由こそあれども此方に協力する理由は見当たらない。
ふむ、と奏一郎は少し思案気な顔になってから、また喰えない微笑を浮かべる。
「其処の不動の旦那と表立って事を構える気は無いねぇ。だって、やくざ者怖いし」
「遊郭の人間がよく云う」
明け透けな発言に竜司は声を上げて笑う。対して義武の表情は一切緩まない。珠屋の裏にある組織の事もまた、福原界隈に住む者として、また軍人として知っている。その跡取り息子が荒事に慣れていないとは到底思えない。
「そもそも、僕はこの店に来るって店の者に云って来たからねぇ。僕が不審だって手を出したら大変な事になるんじゃないかな」
「……喰えない奴だ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
とはいえ、それで押し通せるとは奏一郎自身も最初から思っていた訳では無い。危うい立場は承知の上だ。それでも、今この時期を逃してはならない事情があった。険のある視線を流しつつも、小さく肩を竦めた。
「正直に云うとね。僕は静流と一緒にあそこから逃げ出したいんだよ」
思いがけない発言に三人は軽く目を見張る。確かに一般論とすれば、遊郭という場所は女にとって決して幸福に過ごせる処ではない。妓楼での仕事が幸せを結ぶものかというのもその限りではない。しかし、まさか当人の口からそんなにもあからさまな台詞が聞けるとは思わなかった。
僅かに太い眉を寄せた竜司の声が少し低いものになる。
「どうして、お前があの女と? お前にとってあの女は何だ」
「静流は僕にとって可愛い妹のようなものさ。だから、あの親父の良いように扱われている現状が不憫でならないんだ」
それまで浮かべていた笑みに影が宿る。声に滲んでいるのは紛れも無い憂いだ。竜司とは別の意味で、奏一郎が彼女の事を深く想っている事が伝わるものだった。同時に。ある程度予想はしていた事ではあるが、珠屋での静流の立場が知れて嫌悪の念が湧く。
だから、と。不動に言葉を返す時には先程までの微笑が戻っていた。
「珠屋の裏にある組織と敵対する不動の旦那の力を借りたいなぁ、って」
合点がいったように不動が頷いた。敵の敵は味方。単純だが、筋の通った理屈だ。
「手前、俺達が此処に来る前に張ってやがったな」
その言葉には何も返さず、奏一郎はにこやかに、極め付きに物騒で率直な誘いを持ち掛けた。
「だから、うちの妹を攫う算段をしようじゃないか」
拒絶される事など一切考えていない言葉に、竜司の口角が上がる。狩りの算段を立てる獣さながらの形相だ。珠屋の縁者という立場の価値は大きい。仮に奏一郎の言葉に裏があったとしても、此方の事情を知られてしまっている以上、表向きは手を組んだ方が危険は少ない。万が一組同士の抗争に発展したとしても、それは静流を諦める理由には成り得ない。
「事情に詳しい内通者ってのは幾ら金を払ってでも手に入れたいモンだが、まさかこんなにも簡単に手を組めるとはな」
爛々とした目に宿るものは喜色のそれだ。
「これが日頃の行いってヤツなんだろうなぁ。そうは思わねぇか、義武」
「云っていろ」
運や天命といったものを竜司が決して信じている訳ではないという事は、この場に居る中で一番義武が詳しい。それだけ機嫌が良いという事だ。手駒と云ってしまうと聞こえは悪いが、己の計画に味方を引き込めたのだから、尤もな反応だろう。
「とはいえ、あまり大事にするのは得策ではないぞ」
「事は大きくなったがやる事は一つだ。あの女――静流を、俺の手で攫いたい」
そう、はっきりと宣言する。その響きは真剣で、有無を云わせない力があった。
「堀川。手前はもう俺の舎弟だ。文句は云わせねぇ」
横暴極まりない言葉に、清は「乗り掛かった舟ですから」と返す。全てを諦めたような返事だった。
「御後田の若旦那。手前とは利害が一致した。俺達は良い協力者になれるだろうぜ」
奏一郎がにこりと目を細めて頷く。理解関係は竜司にとって下手な情よりも遥かに信頼出来る要素でもある。
「義武。手前には金を払う気は無い。だが、手を貸してくれるだろう?」
それまでの二人とは少し態度を変える。しかし、二人の時以上に、答えを確信している口振りでもあった。
言葉を向けられた義武の脳裏に、昔に猫を拾った時の記憶が蘇る。何を云っても聞かない、決め込んだ事を成し遂げる為ならばどんな手段も厭わない。そして、あまりにも暴走する竜司を窘め、尽力してきたのが義武だった。
「最初から断わると思っていたら、お前は俺に話を持ちかけてこないのだろう」
「その通りだ」
渋い顔のまま、気安さ故の呆れと許容を滲ませた義武を、竜司は信頼の込めた目で見た。長年の付き合いが前提となっている空気に、それまで黙っていた清が、恐る恐るといった様子で二人に問いかけた。
「えっと、物凄い今更なんやけど、そちらのお兄さんは? 軍人さんって云うてはったのはさっき聞こえたんですけど」
場の流れというのもあったが、此処まで義武が名乗る機を逃して来てしまった事に漸く気が付いた。
「一緒になってくれるんだろう? 僕達に紹介してくれてもいいんじゃないかな」
この場が初対面となる二人にとってみれば、そう思うのは何ら不思議ではない。奇縁だが、共に物事を成し遂げようとする相手への礼儀を失するのは義武にとっても不本意なものであった。今一度姿勢を正して名乗る。
「岩田 義武。察しの通り、帝国陸軍に身を置く軍人だ」
「成程ね。剣の腕が立つ人が居ると云うのはとても心強いなぁ。頼りにしているよ」
「……過信はしてくれるな。何せこの様だ」
左の目元を指して云う。それでも並大抵の人間よりは戦う術を知っているのは事実だ。
「謙遜するな。お前の事だから、目がそれでも腕が鈍らねぇように色々やってんだろう」
「軍役を全うする為には当然の努力だ」
「岩田さん……は不動さんのお友達なんですか?」
この問いを真正面から尋ねる事が出来る辺り、やはり堀川 清という青年は度胸がある。顔付きは一度横に置くとして、義武の立ち振る舞いは、竜司のようなやくざ者と共に居るのが不自然に感じるのも可笑しくない程生真面目なものだった。
「やくざ者と軍人が友である事に理由が必要か?」
「昔からの腐れ縁だ」
しかし、ほぼ同時に放たれた言葉に、二人は酷く何かを納得した顔になる。説明の手間は省けたが義武としては何処か釈然としない。
「つーかお兄さんら。今更ですけどこれ僕を巻き込む必要ありました? お三方で何とかなったんと違います?」
「何だぁ、堀川。話聞きたいっつったのは手前だろ? 今更逃げ出すだなんて云うなよ」
ずいと顔を近づければ「ひえっ」と情けない声が上がる。とはいえ、もう諦めているのも事実なので抵抗らしい抵抗を清はしなかった。
そうして、改めて揃った面子を見渡した竜司が手を打った。
「――って事だ。付いて来い、手前等!」

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