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あの日、自分は人を斬った。自分にとってそれは紛れも無い事実だ。云い逃れも、釈明もしない。同時に、悔いも無い。
それが巡って今に至る。何とも感慨深いものがあった。
結果として助けた命が幸せを得た。人を斬った血で濡れた手でも結べるものが在ったのだ。
そこに後悔等、ある筈が無かった。


 *****


 

深夜の、突然の来訪者一行に尼僧は流石に目を見張る。しかし、男三人がこれ迄の事情を搔い摘んで説明すると直ぐに納得したように頷いた。
「随分と愉快な事をしたもんだのぅ。……まぁ、あの男がその場から姿を消したと云うのなら一先ずは心配は要らんじゃろうて」
逃げ足の早い奴じゃからの、と語る声は冷めきっていた。曰く「奴の仕事のせいで儂がどれだけ苦労した事か」と、憤慨も露な様子だ。遊郭の楼主と投げ込み寺の尼僧と云うだけではない因縁を感じるも、今其処に触れる気は三人には無かった。
「それしても、被害がこの坊主だけで済んだのは僥倖だったのぅ」
ちらりと義武を一瞥した後に、尼僧は聞きなれない言葉を幾つか呟いた後に清の額に札を押し当てる。少し時間を置けば沈んでいる意識は浮上するとの事だ。
「本当に、ありがとうございます」
「ありがとう、おばあちゃん」
義武と奏一郎が頭を下げる。道中で意識を取り戻した静流もそれに倣った。彼女が居なければ最悪清を手に掛けなければならなかった事を鑑みればいくら感謝を述べても足りない。気にするでない、と云った後に彼女は視線を竜司に腰を抱かれている静流へと向けた。
「今回も大事にならんで何よりだねぇ、〝姫様〟……いや、もう〝姫〟ではないのかのぅ」
何故か竜司の方を向いて意味深に笑う。僅かに頬を染めて静流は俯いた。声を発して何かを答える事も出来ないようだ。尼僧の態度に竜司はあからさまに嫌な顔をするも、彼女にとってはそれが面白かったらしい。笑みを深めて云った。
「なんじゃい。今回の〝姫〟のお相手はあんたじゃろう?」
「今回の、ってのはよく分からねぇが、此奴の相手は俺しか居ねぇ」
「良い男を選んだもんじゃのう。ま、あの人には負けるがな」
からからと笑う彼女の知る過去を知る術はない。知るべき事でもないのだろうが。舌打ちを一つ漏らして竜司は話の筋を元に戻す。
「で、堀川は如何なんだ。何だか可笑しくなっちまったみてぇだが、元に戻るのか?」
「戻るよ」
「なら良かった。それなら舎弟として働かせられるな」
嘯いた言葉に「素直じゃないねぇ」と笑われるも、顔を背けて聞こえない振りをした。理不尽かつ乱暴な矛先が清へと向いた。
「手前起きろ堀川ァ! 寝た振りしてんじゃねぇよ」
「ぅ…………う、ん……ん、あれ、生きてる?」
死んだものだと思ったのに、と鳩尾の辺りを抑えながら瞬きをする。
「あれ、皆さんにおばあちゃんも……え、投げ込み寺? 何でって、あぁー……」
何処か納得したような間延びした声を漏らし頷く。案外と意識は明瞭なようで後遺症も無さそうだ。義武と奏一郎がほっと安堵の息を吐く。竜司も心境としては彼らと同じだが、それを表に出して喜べるほど素直にはなれなかった。
「手前分かってンのか? 今回の件で俺にどれだけの借りが出来たと思ってやがる」
「いやぁ、それに関してはほんまにお手数お掛けいたしましたとしか云われへんのですけど……」
「当然だ。手前の一生で返せると思うなよ?」
向かい合う二人は片親こそ異なるが確かに血を分けた兄弟という間柄だ。清は最初から分かっていたようだが、竜司にとっては青天の霹靂とも呼べる事実だった。無論、突然現れた〝弟〟という存在に困惑はある。しかし竜司にとって、彼は弟である以前に『堀川 清』という舎弟――仲間だった。だから、意識するまでも無く清に接する態度はそれまでと全く同じものだった。不遜で不条理なまでに横暴で、しかし決して見捨てる事はしない。
「これからも俺の処で稼げ。その大層な名前の大学出てからになるだろうけどな」
鳩尾に向けて、取り上げたまま持ち続けていた学生証を投げつける。担保等もう必要ないものだ。痛みに呻くも清の表情は明るい。
「商売をするなら従業員の一人くらい必要やしね」
「学の無ぇ従業員は要らねぇ。卒業してからそういう事は云うんだな」
舎弟の面倒を見る兄貴分として、また生家を飛び出したという〝弟〟に対して〝兄〟が出来る施しが一致していた。それだけの事だった。口の端を釣り上げる様は、顔立ちこそ全く異なるもののその仕草は良く似たものがあった。
微笑ましいとすら思える遣り取りの横で不意に、随分とわざとらしい口ぶりで嘆く声が上がった。
「いやぁしかし困ったなぁ。家業の遊郭をやくざ者に壊されてしまったよ。如何しよう」
「そうかい、そりゃあ大変な話だなぁ」
「どこかに勘定経験がある、遊郭の若旦那を好条件で雇ってくれる処なんてないかなぁ?」
真面目な顔を作っていた竜司だったが、堪えかえたように肩を震わせる。一頻り笑った後にある勧誘を持ち掛けた。
「遊郭の若旦那の腕も気になるが。俺としてはその三味線でこの女を慰めてくれる。そう云う奴が欲しいんだがな」
ほんの一瞬、奏一郎が言葉を失った。それ程までに竜司の誘い文句が思い掛けないものだった。
「いいねぇ。乗った。僕と三子を同時に拾ってくれるなんて、見る目があるねぇ」
「誰にだって代わりの利かねぇモノがある。他人に取っちゃぁ下らなくて詰らないものかもしれねぇが。彼奴に取っては何より価値がある物だろう」
「理解のある人に出逢えて嬉しいよ」
にっこりと笑い「よかったねぇ、三子」と三味線に頬擦りをする。今までの何かを含んだものと違い、憑き物が落ちたように綺麗な微笑だった。
長年不穏な声に苛まれ続けてきた奏一郎にとって三味線は最早心の支柱だった。仮に声から解放されたとしても、そう簡単に手放せるものでは無い。それを竜司は理解していた。理解されていた事が素直に嬉しかった。
「そうそう。僕の事を『お義兄様』って呼んでくれてもいいんだよ?」
「冗談キツいぜ。寝言ってのは寝てる時に云うモンだろうが」
「だって実際事実そうじゃないか。……さて、僕らは往くけど。岩田君、君は如何するんだい?」
それまで黙っていた義武に話の矛先が向けられる。彼もまた皆と共に来るだろうと当然のように扱われていたが、他の三人とは異なり彼には元より神戸福原を離れる明確な理由や目的は無い。今までも云わば成行きで行動を共にしていたようなものだった。此処が縁の切れ目となっても不自然ではない。ただ、義武自身が答えを決め倦ねている節はあるようだ。返した声は何とも曖昧なものだった。
「如何したものかな」
「来る気が無いのなら、別れの前に確認したい事があるんだよね。……君さ、静流の父親が斬られた日の夜、あそこに居たんだろう?」
その問い掛けはその場に居た全員の虚を突くものだった。竜司と清が信じ難いといった様子で義武を伺うも、彼もまた向けられた言葉に絶句していた。場の反応に奏一郎は小さく肩を竦めてみせた。
「見覚えがある、と云える程の確証は無かったんだけどねぇ。ただあの死体の斬り口は、さっき君が斬った雑魚共のものと同じだったよ」
「……彼女の父親を名乗る男だとは知らなかったがな。あの時の彼女が静流さんである事も、知ったのは全て後になってからだ」
返事は肯定と同義のものだった。元より否定をする心算は無かった。何せ全て事実なのだから。
嘗て、義武は福原遊郭に来た事があった。目に傷を負った直後、同僚達に慰めにと誘われたのが発端だ。酒にも女にも気が乗らずに一人散歩に出ていた処に、奇声を上げながら少女の首を絞める男を見つけ、斬り捨てた。
戦場以外で人を斬る事に抵抗や罪悪感が皆無であったとは云わない。しかし、考え感じるよりも先に義武の身体は動いたのだ。斬らなければと、同時に斬ってはならないと。奇妙な感覚を抱いた事はハッキリと覚えている。あの時生じた相反する感情の正体には何となくではあるが察しもついている。恐らくこの神戸福原の者の血と、それ以外のものが齎した歪みだろうと。但し、それは己のみが把握していれば良い事だ。
過去を振り返っていたのはごく僅かな時間だった。顔を奏一郎から竜司の方へと向ける。
「斬り捨てた相手に金を払っても良いとお前は云ったが、そんなものは望んでいない。俺の行いはお前が勘定に数えるようなものではない。俺にはそれしか出来ないというだけの事だ」
数日前に竜司が云った台詞に触れる。彼にとっては金を払う価値があると踏んだのだろうが、それを行った当人からすれば到底頷けるようなものでは無かった。義武の行動は只の人殺しで、彼自身もそれをよく分かっていた。それが己の業であると。
「だが、お前ならば愛した女を幸せにしてやれるだろう。俺はそれを信じる。如何か、幸せになれ。竜司」
ぐっと眉を寄せる。怒りにも似た表情だが、それでない事は分かる。幼馴染の分かり易い形相に義武は小さく表情をやわらげた。
「……確かに金を払っても良いとは云ったが、手前のお陰で金に代えられないものが……助かった。あの時、此の女の命を救ったのはお前だ」
竜司の肩に抱かれた静流もまた、驚いたように目を見開いて義武を見詰めていた。彼女にとってあの夜の記憶は酷く朧げなものだった。連れ出され、何かをされ――気付いたら男は死んでいた。其処に関わった人間が目の前に居る偶然が信じられなかった。けれど。あの夜に義武は男を斬り、その結果静流は今こうして生きている。それは事実だった。
義武が何かを返すよりも先に竜司は言葉を続ける。
「お前は確かに斬った。彼奴の親父を名乗る男を斬ったんだろう。だがその結果で救われた奴も居る。それは受け入れろよ」
そう云って握り拳を義武の前に突き出した。あの夜の義武の行動が無ければ、静流は殺され、竜司の恋も実らなかった。返せない程の恩義を感じるなと云う方が無理な話だ。義武自身には素直に受け入れる事は出来なくとも、しかし竜司の心意気が真実のものだという事は感じられた。
目の前の拳に、己の拳を触れ合わせる。武骨な手同士がごつり、と音を立てた。
「手前は剣を取るしか出来ねぇと云ったが、剣を捨てて生きた事は無いだろう」
 云って、義武にある提案をする。
「捨ててみろ。そういう生き方もあるかもしれねぇだろ」
「……一度は捨てようかと本気で悩んだ。だが、そう考えた時にも、この手は動いた。だから、そういう事なのだろう」
それは目に傷を負った時。慰めにと同僚達に遊郭に連れ出され、その先で絞殺されようとしていた少女を見た時だ。最早剣は義武にとって腕も同然だった。視力を失い、腕前が落ちざるを得ない境遇になっても、手が血で濡れる業から逃れる事は出来ないのだと思い知らされた。
竜司の目にやや剣呑な光が宿る。己を卑下しかねない発言は、喩え義武が自身に向けたものであったとしても納得が出来ないのだろう。そんな視線にも義武は肩を竦めた。
「しかし、あの時は分からなかったが、ああして斬った事が巡り巡って誰かを助けた。それに悪い気はしないさ」
助けた少女が静流である事も、斬った男が彼女の父親で柿本の縁者だという事も、当然ながらその時は知る由もなかった。相手が誰々であれ人殺しが重罪だとは理解している。人を殺める事は多くの悲しみや恨みを招くものだとも。その罪を被るのは義武自身だ。無論その覚悟はある。
ただ、偶然の一言で片付けられない程多くの巡り合わせが重なり、結果として彼の愛する者達の幸福に繋がるという奇跡を目の当たりにして、僅かだが救われたような想いを抱いた。結果論だとは分かっているが、悔い等ある筈もない。
「だから、誰のために揮うか。それ位なら考える余地はあるな」
「其奴が手前の矜持か」
矜持と呼べる程に大層なものであるのか義武自身に判断は付かない。しかし、返す言葉を待たずに竜司は続けた。
「俺はお前に金を払う気は無ぇ。金を積んでも手前の矜持が買えない事を知ってるからな」
笑い、一度拳を緩める。そうして今度は誘うように掌を差し出した。
「来い、義武。お前の剣は俺が使ってやる。俺の為に、手前の剣を貸せ」
買い取るのではなく借り受ける、と。それが竜司なりの〝お願い〟だと、何とも乱暴な頼みがあったものだと、気が抜けたように義武が笑う。思い返せば、今まで彼の頼みを断れた試しなど無かった。どれだけ無茶を持ち掛けられても、結局は自身の意思で付き合ってきた。今度もそれと同じだ。血に塗れた己の手に対して複雑な感情が無いとは云わないが、自分も相手も、それを受け入れている。ならば、今更確認を重ねる事など野暮だろう。
「高く付く、とは云っておくぞ」
諦めにも似た声色で云い、義武は誘いの手を取った。それに竜司は大きく笑う。義武が剣を捨てられない男だと云う事は最初から分かっていた。その上で、彼が自身の剣を揮う先を見つけられるように、その道中を共にしたいと思ったのだ。強く生真面目な幼馴染が孤独の道を歩まぬように、そう思った。
それに、と義武が付け加える。視線を最初に自分に話を向けた相手へと移す。
「運命を預けられたままの相手も其方に居るらしい。其方についても責任は持つさ」
「律儀だねぇ。ま、宜しく頼むよ」
奏一郎が薄く笑う。隣で清が安堵の笑みを顔に浮かべていた。竜司に腰を抱かれている静流もまた、小さく頭を下げた。
「で、話は済んだかのぅ」
話が付いたと見た尼僧が声を挟む。
「この坊主ももう動いて大丈夫じゃろう。往くならさっさとお往き」
「云われなくてもこんな処に長居なんてする心算はねぇよ。……世話になったな」
予め旅支度は済ませてこの日を迎えたのだ。余計な時間は取られないよう手筈は整えている。何処から足が着くとも限らないのだから。ごく小さく口にした礼に尼僧はひらりと手を振った。
そうして日の出の少し前。五つの影が人知れず、神戸福原遊郭を後にしたのだった。


 *****


 

 

帝都のとある一角。
伝統よりも新興を重んじる活気に満ちた界隈に、ごく最近になって店を構えた其処は、敢えて云うのであれば『何でも屋』であった。金はそれなりに掛かる。しかしそれ相応の対価を支払えば荒事であろうと引受ける。仕事振りは確かだと評判が立ちつつある店だった。
そんな店の、ある日の光景。
明らかに堅気ではない風体の男が、人の良さそうな青年を怒鳴りつけている。しかし其処に剣呑な様子は無く、青年の方は寧ろ負けじと何かを云い返している。隣では肩を竦めている生真面目そうな体格の良い男と、三味線を弾き鳴らす優雅で何処か強かな笑みを浮かべる男が居た。
それが彼等にとっての日常だった。
そして。
「竜司様」
腹の膨らんだ可憐な細面の女性が、鈴が鳴るような声で夫である男の名を呼ぶ。如何かそのくらいで、と控え目に窘める声色には、溢れんばかりの愛おしさが滲んでいた。
男は青年から女性へと視線を移し、その獰猛な顔に喜色を浮かべる。
そうして細君たる女性を抱き寄せ、彼女の名を呼んだのだった。

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