あの声が、全ての始まりだった。
忘れられる筈も無い。その美しさは、色褪せる事無く記憶に焼き付いている。
もう一度。そう望むのはごく当然の感情だった。
欲しいものがあるのならば、それを手に入れるだけの力が必要だった。その為にやれるだけの事をやってきた。全てはこの時の為に。彼女を手に入れる、その為に。
*****
「餡蜜と、プリンと、ハットケーキと、アイスクリームがそれぞれお一つずつ。ご注文は以上になります」
ごゆっくり如何ぞ、と店員はにこやかに去っていく。
しかし話の主題と云えば、食事後の甘味を添えるに相応しいような穏やかなものではなかった。何せ遊郭から一人の娼妓を攫う算段を立てているのだから。
「そもそもあの日はねぇ。いつも御贔屓にして頂いてる旦那様達が都合が悪くて。その上、他の姐さん達も殆どが出払っててね。旦那は本当に運が良かったんだよ」
遊郭の情報については奏一郎が最も詳しい。静流に対しても同様で、当時の事情を改めて三人に説明してみせた。
静流は滅多に客を取らないと云われているが、実際は毎晩のように限られた客に囲われているだけだと云う。話を聞く程に、今回の逢瀬が叶ったのはまさに奇跡のような偶然が重なった結果だと思えてならない。
その張本人の片割れに対して、義武が幾らか惚気を聞かされる事を覚悟して尋ねる。
「お前の意思を向こうはきちんと把握しているのだろうな」
全うな婚姻を結ぶというのであればこのご時世、女性側に拒否権は無いに等しい。しかし、この現状で竜司一人の思い上がりであったのならば大惨事だ。案の定と云うべきか「当然だ」と竜司は胸を張って言葉を返す。
「また会えるか如何か聞いてきたんだぞ」
それは遊女の手管、ないしは常套句のそれではないのだろうか。清があからさまに不安だという目をチラチラと義武へと向ける。それを受けた義武が奏一郎に目を遣ると、彼は無言で小さく首を横に振った。内心で「駄目だな、これは」と義武は呟く。言葉に出していない辺り、まだ幼馴染への配慮が勝った。しかし、そんな幼馴染の細やかな配慮など竜司には無縁のものだった。
「何だよ。云わせんじゃねぇよ」
僅かに俯きながら餡蜜の皿に突っ込んだ木匙を掻き回す。その動作に大した意味はないが、中の寒天はさぞ哀れな事になっているだろう。
「駄目だな、これは」
今度ははっきりと声に出した。あまりにも直接的な声に奏一郎が笑い、清が慌てふためく。
軽い溜息を吐きながら、しかし、ふと頭に引っかかるものを感じた。己の知っている――町の噂や静流に執心している軍部の上官達の話、そして今竜司や奏一郎から聞いた言葉を頭で整理する。
かの人魚姫は、声無き高級娼妓として名を馳せている。噂に多少の尾鰭は付くものだとしても、決してその本質は眉唾物の話ではない、その筈だ。
「……待て。お前、確かに彼女はそう云ったのか? お前はそれを聞いたのか?」
「嗚呼。云ったんだよ、あの女。『また会えますか』って。あんな細い声を聞かされたらなぁ」
聞く限り、それは只の惚気話だ。ありきたりな筈のそれに、奏一郎ははっきりと眉を顰めてみせた。
「それは看過できないね」
「如何いう事だ」
「君が静流の手管にベタ惚れだったとしても、そういう嘘は云っちゃあいけない」
かしゃん、と匙が餡蜜の更に音を立てて落ちる。場の温度が幾らか下がったように感じるのは決して錯覚ではないだろう。
「此方こそ聞き捨てならねぇ。手前、俺がフカシをこいてるって云いてえのか」
凄まれても一切顔色は変わらなかった。何故なら、奏一郎は静流の抱える事情を誰よりもよく知っているのだから。肩を竦めて、他の人間達にとって衝撃的な言葉を口にする。
「だって、今の静流は人の声が出せないのだから」
「何を云ってやがる。彼奴は、ちゃんと人の声を……」
一度否定するも、しかし竜司の声は其処で止まった。秘かに彼女の美しい声の記憶を辿る。そうして、何か思い当る事があったのだろうか、そのままそのまま黙り込んでしまった。その態度を見た奏一郎は、不意に話の矛先を竜司ではなく義武へと向けた。
「ねぇ、岩田君。有名だろう?」
「如何いう事なんだ、義武」
此処で話を此方に向けられても、と云うのが話の矛先を向けられた男の正直な気持ちではあるのだが。返事に迷う義武に、奏一郎が更に言葉を重ねた。
「人魚姫は声が出せず、まるでその音は人には聞き取れない――海に泳ぐ海豚のようだと、そう喩えている客もいたね」
「……その血液は人を癒すと――それ故に人魚姫に魅入られた男は彼女を手放せない、と。あれも眉唾物の噂話ではないのか」
軍の詰所で耳に挟んだ噂を思い出し、少しばかり顔を顰める。面妖な内容ではある上に、か弱い女性の身が傷つく事が前提の噂に生真面目な気質の男が良い感情が抱ける筈も無い。皮肉気に目を細め、奏一郎は義武の知る噂話を肯定してみせた。
「嗚呼、それも事実だよ。そして、人魚姫の声を聞く事が出来るのは唯一人。その遊郭の若旦那だけ。そういう噂を聞いた事はないかい?」
義武にすれば、こんな事態に巻き込まれなければ思い出しもしなかった事だ。或いは真偽の知れぬ噂話と切り捨てた類のものだが、奏一郎の反応を見ればそれらは事実だと知れた。
険しい顔になる竜司と義武の横で「不思議な事もあるもんなんやなぁ」と清がハットケーキを頬張りながらひたすら感心したように聞いている。立場的に致し方無いとはいえ蚊帳の外感が否めない。今一つ実感が湧かないのだろう。静流に纏わる噂話も、ごく最近になってこの土地にやって来た彼にとっては全てが初耳だった。
「手前は大阪の大学に通ってるくらいには頭が良いんだろ。そういう事は有り得る事なのか?」
「僕は商業科なんで医学は専門外なんやけど。……少なくともそんな話は聞いた事無いですけど」
竜司に尋ねられた清がそう答える。学ぶ者達が集う場所では様々な話を耳にする機会は多いが、それでも己の知る範囲では思い当るものは無い。顎先に指を当てて首を捻った。
「静流さん……でしたっけ? 彼女がわざとそういう喋り方をしてはるってなら分かりますけど。それにしたって、噂になるくらい徹底するなんて難しいやろうしなぁ」
「それこそ戦場であれば、怪我や目にしたモノの衝撃で声が出せなくなる、という話なら珍しくは無いが」
義武が言葉を添える。しかし静流の場合、原因は彼が知る事象とは異なるものだろう。
「最初からそうなのか?」
「いいや。丁度あの子の父親だと云う男が死んだ頃から、だったかな」
「父親?」
「そう名乗っていた男、と云った方が正しいかな。詳しくは僕も知らないんだ。帝都から来た碌でなし、って事くらいしかね」
彼女の借金はその父親と名乗る男が残したものらしい。その人物と奏一郎には然程接点はないとの事だが、彼が父親に対して良い印象を抱いてないのは口振りからも明らかだった。
一通りの疑問に答えた奏一郎は「でも」と竜司に話を戻す。
「その反応って事は、君には本当に静流の声が分かるんだ」
「当然だ」
ふんぞり返らんばかりの勢いで肯定してみせる。駆け引き事以外での嘘を嫌う竜司の気質は初対面の二人ですら察せられた。
「何故お前には彼女の声が分かるんだ?」
そう奏一郎に尋ねたのは義武だ。竜司も謎だが、常人には分からない音を声として理解出来る兄貴分も相当に謎だと思うのは当然の成り行きだった。
「僕は普段から三子の声を聴いてるからね。耳は良いんだよ」
茶化すように笑うも、彼なりに思う処はあった。今に至るまで、人とは異なる業を背負った妹分の傍に居て、彼女を支え続けたのは奏一郎なのだから。
「妹のように育った存在だからね。声が通じずとも、云いたい事は分かるんだ」
下手な理屈を並べられるよりも、その声には説得力があった。彼の云い分もまた決して嘘ではないと三人は直感的に思い知った。
それにしても、と清が何処か納得したように口を開く。彼の存在は、ともすれば重くなりがちな場において一種の緩和剤のようですらあった。
「声が出ないから『人魚姫』かぁ。上手い事云うもんやわ」
「言葉が分かる相手がそれまで兄貴分一人だけだったのが、何故か此奴にも分かる。恐らく俺や其方の……堀川君と云ったか、俺達が聞いたのなら、他の連中と同じで判別が出来ないのだろうな」
「寧ろ、僕以外に静流の声が分かる人間が居るって事の方が僕には驚きだよ」
誇張ではなく心底そう思ったと、些か複雑そうな視線が竜司に向く。当人はと云えば至って平然としていた。
「単純な事だろう。彼奴が俺に伝えたいと思ったから、俺に分かったんだ」
厳つい男からなんとも浪漫のある言葉が飛び出した。「惚気か」と義武が呆れた顔をする。
「理屈は如何でも良い。堀川のような頭の良い奴が考えても着かないようなものなら俺が考えたって分かる筈がない」
いっそ堂々と開き直り断言する。理解の及ばぬ事にいつまでも囚われていては埒が明かない。それならば、今目の前にある事実以上に価値のあるものは無い、というのが竜司の持論だった。
「俺はあの女の声が分かる。お前にも分かる。あの女が何を云いたいのか、何をしたいのか。それを俺達は聞いてやれるって事だろう」
「その通りだね」
「それなら話は早い。俺は俺のしたい事を手前等に話した。あの女が何をしたいのか、それを俺は俺の耳で聞いたいと思ってる」
「いやでも、それを如何やってやるのかが問題なんと違います?」
此処で話をしているだけでは物事を進めるにも限界がある。幾ら計画を立てた処で机上の空論である事には変わりない。何かしらの行動を起こす事は必須だ。
義武と奏一郎が目を見合わせる。何故だか、互いの考えに近いものがあると理由も無く察してしまった。
「攫うのなら、建物や部屋の把握はしておいた方が良いだろう」
「違いない。地図を持ってくる事は容易いけれど、百聞は一見に如かず、だからね」
頼めるか、と。そう尋ねれば「勿論」と奏一郎は笑ってみせた。
「皆さんを珠屋に招待して差し上げましょう」
*****
「姐さん方、お客様がいらっしゃいましたよ」
昼店も終わり掛けの時間帯、楼主ではなくその跡取り息子の声が珠屋に響く。案内されたのは如何にもお坊ちゃんといった風体の青年だった。
「いやぁ、『神戸に来たからには此処行っとけ兄ちゃん』て町で云われたんでー」
神戸に来た当初の目的は観光でもあったのは純然たる事実である為、清の口調はごく自然なものだった。云った側に警戒心など微塵も無いといった態度では、云われた側がそれに疑問を抱く筈がない。そんな清の様子は、云ってしまえば『葱を背負った鴨』である。しかし、だからこそ、聞き込みには最適な人材だった。これが竜司や義武であればこうはいかない。因みに竜司と義武は既に奏一郎曰く『表立って入りたくないと云う方』の為の裏口から既に珠屋に案内されている。普通の客として来ようにも、この二人は様々な意味で目立つというのが理由だ。
「でも実は僕、こういう処も初めてなんで、よう分からんねんけどぇ」
「あらまぁ。嬉しいわぁ」
お座敷遊びと云っても宵の時間にはまだ早い。夜のものとは内容も金額も比べ物にならない程に穏やかで可愛らしいものだ。清の相手にやって来た者は珠屋でも古株の遊女だった。清と並ぶとまるで少し年の離れた姉弟のようにも見える。
「僕、大阪の大学で商業勉強してるんですよ。此処の楼主さんが一代で築き上げたって云うから、商売の秘訣とか教えてくれたらなぁ、って。まぁそう簡単には教えてもらわれへんやろうけど」
「まぁ、随分と勉強熱心なんね」
「と云ってもウチは実家が布問屋なんで、お姉さんが着てるみたいな綺麗な着物を卸すのがお仕事ですから。なので妓楼をやろうなんて気はないですけど、お商売は人相手ですから。色んな人の話聞いて無駄になる事もないやろうから」
「大旦那さまなぁ。うちらもあんまり詳しい事はよう知らんねんよ。滅多にお顔を出すお人とも違いますし。ただ、この辺りのお生まれの方ではないんよ」
「あ、そうなんや?」
相槌を打つも、何処までも後ろ暗い男だという印象が揺らがない。
「何処からか遣って来て、いつの間にか此処に店を構えていた、って事ですか。……はぁ、凄いですねぇ」
真似出来そうにないと苦笑する。素直な反応に彼女は目を細めた。遊女にとって己の客たる男の殆どは、駆け引きや劣情といったものが切り離せない。こうした色気とは無縁の会話というのは久しぶりの事だった。そのせいだろうか。常であれば――客相手では決して話さないような事も口を吐く。
「それだけ色々あるみたいよ。恐い顔したお人達が『マスター』呼んどったりとか。噂やけどね」
妓楼であれば裏でゴロツキややくざ者との繋がりがあった処で別段珍しいものではない。珠屋の裏に付いているゴロツキは、近頃宗教団体と結び付いて権力を伸ばしている『銀の黄昏』と名乗る集団だという。古くからこの地に蔓延っている者達で不動商会とは敵対している組織だ。
「噂云うたら、此処の人魚姫さん、でしたっけ。物凄く執心されてるって聞きましたけど」
「あぁ、静流ちゃんも可哀そうになぁ。奏さんも心配やろうね」
「自分の親父が妹分そないに扱っとったら、そらなぁ」
さもありなん、と清は頷く。其処に彼女は「此処だけの話やけど」と少し声を潜めた。
「奏さんもな。大旦那さまの息子って事になっとるけどね、血の繋がりは無いんよ」
「あ、そうなん?」
奏一郎自身はこの福原遊郭の生まれである事は確かだが、確実に楼主の実の子供ではないらしい。静流を連れて逃げると決心した背景にはこの辺りの事情も絡んでいるのだろうか。
「珊瑚姐さんはえらい美人やったからねぇ。奏さんも綺麗なお顔してはるから、よう似とるわ。お三味の腕も姐さん譲りで……ああ、話が逸れてしもうたね」
元は何の話をしていたのやら、と。彼女は何処かとぼけてみせたように口元を抑えた。艶めいた遊女の可愛らしい仕草に清も小さく笑う。
「何処も色々あるんやなぁ。いやぁ、勉強になりましたわ」
互いに「ね?」と顔を見合わせる。しかし彼女はくすくすと笑い、その笑みの色を一瞬で変えてみせた。
「若いんやからお勉強していき。なんなら、色々教えてあげようか?」
清の顎をつぅ、と細い指が撫でる。艶めかしい弧を描く唇は紅く、細めてみせた瞳に滲む色香に彼は気まずげに顔を赤くして後退る。彼はすっかり失念していたが、此処は遊郭で、まだ陽は落ちていないとはいえ遊女と共にお座敷に居るというのは紛れもない事実であるのだ。金とその気さえあれば、このまま続けて〝お話〟する事も可能なのだ。
「あー……そっちはまた今度でお願いできますか?」
「あら、いけず」
「や、お姉さんにそんなん云われても困るんやけどぉ」
何とも妖し気な空気は、助け船もかくやという頃合いで襖が開いた音によって霧散した。
「お時間ですよ。随分と楽しそうにお話しされてましたね」
奏一郎が二人に微笑を向ける。清への対応は完全に客を扱う者としてのそれだった。自身が通した事など微塵も感じさせない。
今度は彼女の方へと奏一郎が声を掛ける。
「姐さん。贔屓のお客様が下にいらしてますよ」
「あらやだわぁ、旦那様ったらまた……。ほな、可愛らしいお兄さん。またよろしゅう」
「またご縁がありましたら」
たおやかな一礼を残して彼女は部屋を去る。残された清の耳に奏一郎の苦笑が聞こえた。
「全く。姐さんったらお喋りなんだから」
自身の素性について話していた事を指しての台詞だろう。
「違うんですか」
「違わないよ。幸いな事に、僕も静流も此処の楼主との血の繋がりはないよ」
「はぁ。まぁ良かった云った方がええんでしょうね。実のお父さん相手に騙し討ちみたいな事するんはちょっと遣り辛いでしょうし」
「別に其処については何も気にしてないよ。それより、君も中々だねぇ」
「えっ、何がですか!?」
独り言ちる奏一郎に、思い当たる節のない清は慌てふためく。こういった人懐っこい、人に警戒心を抱かせない気質は生来のものであるのだろうが。若い割に頭の回転の速さも身に付いた教養も、愛嬌もまた世渡りに措ける立派な武器だ。清はそれらを正しく使っていると云える。当人に自覚がないのもある意味では強みだ。巻き込まれた哀れな学生君だとばかりだと思っていたが案外良い拾い物だったかもしれないと、奏一郎は内心で頷いていたのだった。
*****
間もなくして、清と奏一郎の元に義武が合流した。
「あれ、不動さんは御一緒やないんです?」
「元より別行動だ。彼奴と並んでいたら嫌でも目立つ」
「それもそうですね」
「一通り建物の構造は見たが、ただ攫うだけなら左程難しくはないだろうな」
「此処一応遊郭なんだけど。そう簡単に誘拐出来るって云われるのも複雑なんだけどなぁ」
「勿論、手引きをしてくれる内通者が居るのが前提での話だ。違うのか?」
「それこそ勿論、違わないよ」
「やぁ、心強いですわ」
遊郭の一室で、男三人が集い額を突き合わせるという何とも異質な光景である。とは云え、誘拐を企てる為の密会という目的以上に可笑しな事もないが。
酒と摘みを持ってきたのは奏一郎だ。曰く「下戸でもない人に、遊郭で酒を勧めないだなんて」との事だが、恐らく当人が呑みたかったというのも少なからずあるだろう。
暫く三人で話をしていたが、不意に襖がすっと音を立てて、黒を背負う巨体が姿を現した。眉間に皺を寄せながらも不思議と不機嫌そうではない男に真っ先に声を掛けたのは義武だ。幼馴染故の気安さで、短く尋ねる。
「如何した」
「いやな。偶然昔静流にご執心だってお客さんが居てな。ちょっと〝ご挨拶〟してきたんだよ」
己の拳を撫でながらそう云った竜司に、三人が揃って何とも云えない顔になる。到底言葉通りの、穏便な〝ご挨拶〟でなかった事は明らかだ。音を立てずに、しかししっかりと戸を閉めた竜司は至って平然とした態度で座布団の上に胡坐を掻いた。
「あの女についてちょっとした事が分かればいい、それくらいの気持ちで締め上げたんだが。思いも寄らないネタが出た」
「一体何だ」
「彼奴の父親について、だ。如何やら、此処の楼主と繋がりがあった奴らしい」
そうして己が哀れな客人を締め上げて吐かせた話を聞かせる。
静流の父親を名乗る男は、横浜にある『柿本財閥』お抱えの研究所にいた職員であったという。そんな彼がある時突然この福原に遣って来た。実験体だという娘を伴って。行動の理由を語る事こそ無かったが『〝女王〟を手にしている限り、やつらは俺に逆らえないはずだ』と云った旨を口に出し、楼主とも繋がりがあったらしい。しかし、何故か次第に精神に変調を来し静流へ暴力を振るうようになった。やがて完全な狂人と化していた彼は、ある日何事か叫びながら静流の首を絞めていた処を通りすがりの人間によって切り捨てられたという。
「って事らしいが、如何にも話がよく分らねぇ。だが、全てを知っていた静流の父親は死んじまった。何処の誰が殺ったかは知らねぇが、バッサリ斬り捨てられたようだな」
「……成程」
物々しい話を聞いて思案気ながらも顔色は変えない義武とは対照的に、清が驚きも露な声を上げる。
「斬り捨て!? このご時世に……?」
「随分と物騒な話ですねぇ」
帯刀令も廃止されて久しい世の中だ。ごく一般的な市民の反応としては尤もなものだろう。もとい、竜司や義武の過ごす環境が特殊なのだ。
ちらりと奏一郎が義武を見る。大きく溜息を吐いてみせたのは意図しての事だろう。
「驚かないんだね」
「斬った捨てたの話で一々動揺していては軍人などやっていられん」
「いや、そらぁご尤もやけども……」
とは云え、と。義武の表情は渋い。傷跡の残る左の眉を眼鏡に触れぬように抑える。
「死んだ男は何かしらの事情を知っていたのは確かろう。手掛かりが失われてしまったのは痛い」
「だが、俺はそいつに感謝している。金を払ってやっても良い。俺がやらなかった事をそいつが代わりにやってくれたんだからな」
言葉には頷きつつ、しかし竜司の顔付きは義武ほど険しいものではなかった。寧ろ不敵な笑みすら浮かんでいた。お前ならやるだろうな、と渋い顔のまま義武が遠い目をして云った。清と奏一郎もまた不味い物を無理に飲み込んだ時のような顔になる。
「だが、此処で横浜の柿本財閥っつう名前が出て来やがった。あそこは……云ってしまえば堅気じゃねぇ匂いがする。俺の勘は当たるんだ」
それは同業者故の勘というものだろうか。しかし、今触れるべきなのは其処ではない。
「柿本財閥……聞かない名だな」
「俺も詳しくは知らねぇが、さっきそいつから聞いた話だと、帝都で力を伸ばしてる新興財閥らしいぞ」
現会長を筆頭に後継ぎ息子二人と四人の弟がほぼ経営を掌握している典型的な一族経営だが、そういった処にありがちな癌になる人間が誰一人存在しない。其々が異なる才覚を用いて事業を展開しているというのだから恐れ入る。組織全体の気質としては情に厚いが、同時に処罰も厳しい事から前身はやきざ者との噂もあるが真偽は不明である。
「横浜なぁ」
話を聞いていた清が途方に暮れたようにぽつりと呟く。随分と大きな話になったと、そんな思いが滲む声色だった。大阪や、せめて関西圏であれば兎も角、遥か東の土地の事となると距離があり過ぎて今一つピンと来ない。
とは云え此処も港町だ。各地と交易のある商家は幾らでもある。柿本財閥について調べるのであればその辺りに聞き込みをするのが定石だろう。思いがけない方面ではあったが事が幾らか進展したのは確かだ。如何転がっているのかは皆目見当は付かないものの、最終的に目的が達成出来るのであれば構わない。
徳利を手で弄びながら、竜司は己をこの場に引き寄せた男へと水を向ける。
「俺が調べてきたネタはこれくらいだ。なぁ若旦那。そろそろアンタも仕事をしてもいい頃合いじゃねえのか?」
*****
竜司に話を振られた奏一郎が「んん」と首を捻る。この福原遊郭は彼の庭と云っても良い。他の者が知らぬ事も当たり前のように知っている。ただ身近過ぎて、改めて思い出す方が難しい事もある。思い出したくない話も、一つや二つでは利かない。そのうちの一つを口に出そうか出さまいか。少しの逡巡の後、天秤は己に向けられた六つの瞳の方に傾いた。
「あまり口にしたい話ではなかったんだけどねぇ」
過去を思い返すように口火を切る。
それは、この界隈を根城としているゴロツキ達についての事だ。彼らの実態、〝それ〟は人の形をした人ではないもの。魚にも似た両生類に近い顔を持つ、〝海から来たる者〟とだけ呼ばれるそれらは、静流を『我らの姫』と呼んでいた。奏一郎としても、間違っても積極的に関わりたい相手ではなかった。実際にそれらを気に掛けぬように過ごしていたのだが。
「静流は『人魚姫』と呼ばれているだろう? その時はあまり気にしていなかったんだけどね」
否。気にしないようにしていたと云った方が実際は正しい。人ならざる者達と大切な妹分に接点など在って欲しくなかった。けれど、もう目を背けてはいられない。
「ただ『銀の黄昏』と云う宗教団体がうちの親父と結びついていると聞いたからには、何とも気になる話だよねぇ」
溜息交じりに零して、少し俯いていた顔を上げる。そうして竜司の徳利に酒を注ぐ時には馴染んだにこやかな表情に戻っていた。
「……と云う事だけど。お気に召したかな、旦那」
竜司が顰めた顔で徳利を受け取った。彼の眉間には珍しく、深い皺が刻まれていた。
「おや、お気に召さなかったようで」
「酒が旨くなる話じゃねえだろ」
「まぁ、ね。僕も初めてアレを見た時は吃驚したよ」
云いながら己の肩を擦る。声色が幾らか沈んでいるのは彼の者達の姿を思い返したからだった。実物を知っている奏一郎とは違い、竜司達にはその姿を想像する事しかできないが、それでも脳が結ぶ像は生理的に受け付けない、酷く形容しがたく悍しい形をしている。
ぐい、と酒を煽る。苦々し気な色を、喉を焼く熱で幾らか薄めた。
「俺はそれなりに場数を踏んできてる心算だ。そんな俺でも今の話を聞いて胸糞悪いと思った。だが、そんな連中と関りがある手前は、そうやって涼しい顔をしている。その神経を一度引っこ抜いて見せてもらいてぇもんだ」
決して貶している訳では無い、竜司なりの褒め言葉と云った方が近いのだが、傍からは喧嘩を売っているようにしか聞こえない台詞だ。しかし、その意図を奏一郎は正しく理解した。ふっと楽しげに笑う。
「不動の旦那にそう云ってもらえるとは、僕もこの家業から足を洗った後の勤め先は安泰って事かな」
「度胸があって、俺を裏切らねぇ奴ならいつでも歓迎するぜ」
竜司が口の端を釣り上げて奏一郎の盃に酒を注ぎ返した。ほんのりと唇を湿らせる程度に口を付け、視線を竜司から逸らして清へと向ける。俯いている彼の顔は、明らかに青ざめていた。
「堀川君、大丈夫かい? 何だか顔色が悪いように見えるけど」
「いや……今の話を聞いて、顔色が悪くならん方が如何かと思うんやけど」
寧ろ清の反応の方が人として至極まっとうものだ。それまで黙って話を聞いていた義武が「若いな」と呟く。彼も軍人なだけあって、どれだけ酷い話であっても内心の感情を押し殺した顔を作る事には慣れていた。
「人魚姫ってそういう話やっけ? 違うやろ。どちらか云うと河童とか……埜御比丘尼伝説とかもあるしなぁ」
考え込むたびに顔色が悪くなるばかりだ。下手に頭が回るばかりに、思考が一度回ると止まらない。呟き続ける清の肩を義武が揺する。それと同時に前で奏一郎がパンッ、と己の手を清の目の前で叩く。異なる二つの刺激に、彼は我を取り戻したように顔を上げた。
「あっ……如何も、すいません」
「いやいや、君に非がある話じゃあないからね。……ただ、そういう事だから。もしもこの先、両生類のようなぬめりを帯びた肌を持つ何かに出会ったら気を付けた方がいいと思うよ」
でも、と。何処か楽し気な色を乗せた声を奏一郎は続ける。軽く手を叩きながら、しかしその態度はまるで何かを推し量るようですらあった。
「岩田君ならバッサリと一刀両断してくれるんじゃないかな。いやぁ、軍人さんがこの場に居てくれるとは実に頼もしい」
「……此奴は、それを見越して俺に声を掛けてきたのだろうからな」
含ませた意味合いには敢えて触れなかった。云われた科白に対して溜息交じりの言葉を義武は返す。渋い顔つきは両者に向けてのものだが、其処にはある種の諦観に近い色が滲んでいた。義武の声に竜司は答えず、ただニヤリと笑うだけだった。それと似た種類の笑みを奏一郎もまた浮かべていた。
「まぁ、だから。くれぐれも、気を付けて往こうじゃないか」
自分の知っている話はこれくらいだと、奏一郎は話を締めた。
「けったいな事になりましたなぁ……」
「ぶん殴って事が済むなら話が早くて助かるんだがなぁ」
「……兎も角、明日以降如何する」
反応は三者三様それぞれ異なる。清は遠い目を彼方に向け、竜司は拳を握って空を殴る。義武の態度は一見して変わらず思案気に言葉を続ける。薄い眼鏡硝子越しでもその目は冷静で真剣そのものだった。
「此処は云わば敵陣の本拠地だ。情報収集ならば兎も角、今後の動向を練るには不向きだろう」
「夜なら人の出入りが多いから紛れるのは容易だけど、日中はそうともいかないからねぇ」
「今夜は此処で別れて、明日また何処かで落ち合うか」
「あの、今更なんですけど僕、こっちに泊まれる宛てもお金もないんやけど」
「気にするな。お前はもう俺の舎弟だからな。寝床くらいの用意はしてやるよ」
「いや、それは有難いんですけど……有難いんかなぁ……?」
もはや完全に扱いが子分へのそれだ。義武も奏一郎も今更それには触れない。彼是云いながらも清自身が拒絶をしていないのは最初からなのだから。
打ち合わせの最中、義武が集まる前に一度軍の官舎に立ち寄りたいと申し出た。
「休暇の延長申請をしておきたい。それと、荒事になるのなら得物の用意はしておくべきだろう」
軍人と云えども職務を離れるのであれば原則帯刀しない。しかし、巻き込まれた事情の裏を考えれば武器の準備を怠るのは自殺行為だ。戦力の補強の判断に異議を唱える者は居なかった。
「本当に頼もしいねぇ。では、集まるのは昼辺りの方がいいかな。その方が僕も都合が良いな。朝は寝てるし」
遊郭の跡取りとして、仕事の本番は今からなのだと云う。午前様になるのも致し方ない。
翌日落ち合う場所は奏一郎が提案した。其処に眉を寄せた者も居たが、他に良い案が出なかった事もあり彼の希望は通る事になった。
そうして一頻りの予定を擦り合わせ、一先ずこの夜は解散となった。――その筈だった。
*****
からり、ころり、と下駄の音が鳴る。最早己の一部と云っても過言ではない三味線と共に、奏一郎は夜道を歩いていた。夜風に幾らか酔いも冷めた。それにしても気分が良かった。帰路の途中、宵の散歩が普段以上に長いのがその証拠だった。
今後の動向の打ち合わせを終え、背を見送った彼等の顔を思い返す。一体何の巡り合わせだろうか。ほぼ初対面の人間を相手に、ともすれば己の一生を左右する選択を委ねた。しかし、不思議と後悔はなかった。人を見る目にはそれなりにあると自負している。仮に己の判断が間違っていたとしても、最悪静流だけは如何とでもしてやれるだけの手管も備えているのだ。不穏な話も無い訳ではないが、此処まで来たらあとは流れに身を任せるしかない。
ふと、耳が荒々しい足音を拾う。振り返れば、先程別れたばかりの人物が厳つい顔を顰めて此方に駆けていた。
「おや、不動の旦那。僕に何か云い忘れた事でも?」
「手前じゃねぇが。妙な気配がしやがるから気になってな」
「気配?」
首を捻り周囲を見渡す。海を望めるこの場所は遊郭の外れとあって、景色の割に人通りは少ない。それは常の事だ。しかし、そうだとしても静かだ。否、静かすぎる。
季節外れの生温い風が吹いた、その時。ゆらり、と不思議な気配が不意に二人を襲う。生理的な悪寒が背に走り、一瞬確かに足が竦む。すると、海風に誘われたかのように、物陰からひとつ、ひとつと姿を現すものがあった。
それは先程奏一郎が思い出し、出会ったばかりの三人に伝えたゴロツキ――〝海から来たる者〟と呼ばれる存在、其等が辺りに何体も居た。鱗の肌は粘性の滑りを帯び、口は裂け、顔の端に位置する双眸がぎょろりと淀んだ光を宿す。体格は大柄な竜司と同じか、更に少し大きいくらいだ。弛んだ頬と膨れた太い手足が垂れ下がっている。彼らは人ではない――喩えるのならばイルカの鳴き声のような音を発している。常人であればそれは単なる音だ。しかし、二人の耳にその音は意味を持つ言葉として聞こえた。
『おちてこい』
『こちらへ』
『おちてこい』
呼びかけるように、其等は周囲を取り囲む。逃がさないと云うかの様に。
悍ましい者達が齎す空気を打ち破ったのは、低い舌打ちの音だった。
「おい、聞いたか若旦那。彼奴等、この俺に向かって命令しやがった」
否応なく背中を合せる体勢になっている為に互いの顔は見えない。それでも竜司が腹立たしいと思っている事は奏一郎にも伝わった。怒る基準が其処にある事に、ましてやこんな状況に陥って怯えるでもない男に奏一郎は苦笑した。
「でも、そうだねぇ。こんな気持ちが良い夜の散歩を邪魔されてしまっては、腹に据えかねるものはあるね」
日和らない姿勢を見せる奏一郎に、竜司は獰猛に笑う。
「八対二、で如何だ?」
「お気遣いありがとう。でも、これでも福原遊郭で育った者。腕っぷしに自信は有る方だよ」
だから、と奏一郎は口の端を不敵に釣り上げる。
「七対三で如何かな」
「乗った」
云うと同時に、竜司が一番手前に居た異形に拳を振り上げた。正面からそれを喰らった異形がくぐもった呻き声を上げて僅かにその巨体を揺らがせる。
背を預ける男への不安は無かった。奏一郎もまた、手近に居た異形へと足払いを仕掛ける。どさりと転がしたそれの首元を右足で踏み付けた。
「如何して僕達を狙ったのかな?」
にっこりとその場にそぐわない程美しく笑う。そもそも言葉が通じる相手なのか如何かすら怪しいが、情報が引き出せるのなら儲け物だ。しかし、奏一郎の目論見は外れてしまった。問い掛けを理解した様子は無く、只ひたすら『こちらにおちてこい』と繰り返すばかりだ。もしやと思い三味線を鳴らすも、大した意味は為さなかった。優雅な音色だけがその場に切なく響く。義武や清がこの場に居たら「如何してそれで何とかなると思ったんだ」と云っただろう。
「これは、対話は厳しそうだ」
落胆と呼ぶには軽い溜息と共に左足で思い切り蹴り上げた。隣で肉を打つ鈍い音と共に異形の身体が地に伏せた。
「何だ、その程度かよ。見掛け倒したァ下らねえな」
挑発を異形が理解したか如何かは定かではない。二体の異形が竜司に襲い掛かるも、荒事と隣り合わせで生きている男にとっては十分対処出来るものだった。
相手をして分かった事がある。この異形達は人間より多少頑丈だが、云ってしまえばそれだけだ。見掛けのどの脅威ではない。しかし、今は如何せん相手の数が多すぎる。消耗するのは此方ばかりで些か分が悪い。気付けば当初の倍近い数が二人を囲んでいた。
不動の旦那、と暫くして奏一郎が呼び掛ける。
「僕は三体倒したけれど、其方は如何だい?」
「上等じゃねぇか」
既に七体が転がっていた処にもう一体が加わった。二人共、僅かではあるが息が上がっていた。一体ずつ倒すのであればそれ程難しい事ではないが、現状ではどれだけ相手をしていても埒が明かない。
「良し。其々目標数は達成したね。――では、逃げようか」
身も蓋も無い提案だ。しかしそれは合理的なものでもあった。得られる情報が無いと分かっている以上、これ以上此処で何体出て来るのか分からない者達の相手をするのは得策ではない。竜司が苛立ちを隠さない様子で、手に着いた何とも形容しがたい色をした粘液を振り払う。
「此処で手前等がへたるまでやり合うのも悪くねぇが、確かに分が悪い。この数を相手にするなら、あと二人は欲しい」
義武と清の不在を嘆いてみせても今は詮無き事だ。襲い来る一体を逆に沈め、即座に空いた包囲網の隙間を潜り抜ける。異形達は海の方から遣って来ている。逃げるのであればその反対側だ。
奏一郎の先導の元に福原遊郭の裏路地を駆ける。竜司からしたら遠回りにも思えるような小道を選び、異形を撒くように海から離れる。
但し、ただ闇雲に逃げる訳にもいかない。そう竜司が思った矢先。
「こっちじゃ! こっちに来い!」
異形のものとは明らかに異なる、芯のある声が耳に届いた。その声に導かれるようにして、二人は鳥居を潜った。
「不動さーん……! 何処ですかぁー!」
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、この場に居ない男の名前を清は叫ぶ。
自分を連れ歩いていた竜司が不意に顔を顰め、「妙な気配がする」と云って走り去ったのは少し前の事だ。清には不穏な気配は何も感じられなかった。困惑する清に対して「付いて来い」とは云ったものの、迷い無く駆ける竜司に追いついて往くのはそれこそ義武でもなければ難しい。結果一人取り残されてしまった。其の上、只でさえ土地勘の無い清にとって夜の街を一人きりという状況は絶望的だ。如何したものかと内心泣きそうになりながら、灯りを頼りに夜道を彷徨っていた。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありという諺もある。情けない声が知り合いの名を呼んでいる事に気付いた男が清の元へと姿を現した。
「堀川君か。如何した」
「岩田さん!」
この時清は、義武が神仏にも等しく見えたという。すぐさま己の置かれた状況を義武に伝える。尤も、突然何事かを察した竜司が清を置いて何処かへ行ってしまったという事しか当人にも分かっていないのだが。当然話を聞いた義武としても把握出来る事は限られて来る。しかし、確実に分かる事はあった。
「彼奴はまた面倒事に……」
低く呻いて溜息を吐いた。遊郭から女を攫うだけでは足りないのだろうか。けれども、竜司にしても清にしても、知ってしまったからには放っては置けない。
如何したものかと眉を寄せた義武の耳が、その時、遠くで微かに鳴った三味線の音を拾った。まさか――否、此処はまだ福原遊郭の領域だ。奏一郎が居た処で不思議はない。不自然に鳴った楽器の音を除けば。音の方へ視線を遣る。清には三味線が聞こえなかったようで、不思議そうに義武を見上げていた。
「……彼奴は目立つ。目撃情報を辿って往けば、探すのに手間は掛からんだろう」
清を連れて、音の方角へと歩を進める。その道中で往き合った人々から話を聞く事が出来た。数少ない通りすがり達は皆少なからず千鳥足のきらいはあったが、義武の形相と竜司の名前に顔色を変えて答えてみせた。
「不動の若旦那? ああ、ついさっき見たよ。何か線の細い綺麗な兄ちゃんと一緒に走っとったけど?」
「何処往ったって、向こうの方としか分からんよ。でもあの方向にあるのって、確か……」
告げられた場所に、義武と清は揃って怪訝な顔をする。しかし他に宛ては無い。半信半疑に其方へと向かったのだった。
鳥居の先、小さな寺院から奏一郎と竜司を呼んだ声の主は小柄な老婆だった。
「あ? 婆さん何者だ」
「見て分からんか、此処の尼僧だ。投げ込み寺って云うのは知らんかね」
投げ込み寺と云われて僅かに目を見張る。噂程度なら竜司も聞いた事があった。福原の外れに位置するその場所は、遊女達が最後に往き着く先。そういった謂れがあるせいか、実際に死体が投げ込まれる事もあり尼僧は苦労しているらしい。しかし、祓う力を持つ尼僧が管理しているその近辺では静かに過ごせるとも云われていた。事実、如何いう理屈かは知らないが、彼女が居る寺に異形達は入る事が出来ないようだった。暫く周囲をうろついていたが、やがて去って往った。
ふぅ、と彼女は息を吐く。
「無事で良かったのぅ。さ、此方へおいで。嗚呼、先に水でもぶっ掛けるか?」
血塗れとは云わないものの、細かな傷や異形の体液で二人の状態は清潔だとは云い難い。ご丁寧に水を張った桶の用意迄あった。けれど、肌寒い時期の深夜帯。勧め通りに水を被るのは流石に遠慮したかった。
「やめてくれよ婆さん。いくら俺が良い男だからって、そういう関係は御免だぜ」
「へいへい。汚されるのは嫌だでな、座るなら縁側にしてくれ」
云いながら二枚の手拭いを渡す。水で濡らして絞ったそれで手足を拭けば多少はマシになった。双方共に、それなりに手傷は負っていた。相手取った数に差があるにせよ、竜司の方が軽傷なのは荒事を生業にしているが所以だろう。しかし奏一郎の方も、多少着物に乱れはあるがその程度であとは細かな傷が殆どだ。先の彼の発言の通り、喧嘩の腕については決して素人のそれではないと知るには十分だった。
「此処に居たのが手前で良かったと思ってよ。これが堀川だったら俺が十人やらねぇと、彼奴には一人も任せられないからな」
「へぇ。『此処に岩田さんが居なくて残念だ』と云うのかと思っていたよ」
「此処に義武が居たら残りの連中も全部倒せてただろうよ」
「……ま、あそこに居たのが不動の旦那で良かったよ」
出された温かい茶を我が物顔で啜って二人は顔を見合わせ笑う。怪我を負ったとはいえ義武は現役の軍人だ。あの程度の異形相手であれば後れを取る事は無いと竜司は考えた。武器があれば猶更だ。一方の清は、お世辞にも喧嘩慣れしているようには見えなかった。実際に当人がその場に居たら「荒事は苦手です!」と即座に宣言しただろう。
茶菓子の入った盆を持った尼僧が二人の隣に腰掛けた。
「饅頭と羊羹があるぞ。煎餅の方が良かったか?」
「そんなに食えるかよ。手前の菓子だろうが」
「いやぁ、ありがとう」
尼僧の勧めに対して見事に正反対の反応をしてみせた。不機嫌な顔の竜司に「これは儂が食べたいから出したんだよ」と彼女は飄々とした様子で羊羹を一切れ摘む。
「此処に逃げ込むのも久しぶりだなぁ」
羊羹を頬張った尼僧に奏一郎は微笑む。それまでの笑みとは少しばかり毛色が違うものだった。長閑な声に尼僧が軽く溜息を吐いた。
「相変わらず頼り甲斐の無い小倅だのぅ」
「そんな事を云わないでくださいよ。あれ、この羊羹って前に僕が持ってきたものじゃないですか?」
「何の事かな」
如何やら二人は旧知の仲らしい。遊郭の跡取り息子と投げ込み寺の尼僧という取り合わせは何処か不思議なものがあるが、彼らの遣り取りには孫と祖母のような気の置けない雰囲気が漂っていた。
何処か納得したように竜司が片頬を上げて云う。
「此処の事を知ってやがったのか。だからあの時、わざわざ遠回りする道を選んだのか。喰えない男だ」
「何の事かな。たまたまあの道を選んだだけだよ」
「だとしたら、手前は随分と運が良い男だな」
「そうかもしれないね。だって、こんなに都合の良い機会なんて中々得られるものじゃないだろう」
今に至るまでの経緯を指して肩を竦める。違いねぇと竜司が愉快そうに笑った。互いに、この奇妙な縁が只の幸運という言葉だけで説明が付くもので無い事は感じ取っていた。
暫くそうして寛いでいると、鳥居の外から遣って来る二つの人影があった。
「何だ。元気そうじゃないか」
「急に走って往くから吃驚しましたけど。えっと、何かあったんやよね? めっちゃ呑気にお茶飲んで寛いではりますけど……」
呆れた様子の義武と混乱も露な清の反応は至極尤もなものだった。しかし、彼らに向けられたものは順当な説明ではなく、夜の投げ込み寺には不似合い極まりない男の太く低い怒鳴り声だった。
「堀川、手前ェ! 如何して付いて来なかったんだこの屑が!」
「えぇ!? 急に走って行かれて付いて行ける訳無いじゃないですか!」
「口答えする気か! 大体手前はふぐっ」
怒声に耐えかねたのだろう、尼僧が竜司の口に饅頭を突っ込んだ。鮮やかな手腕に「お見事」と奏一郎が手を叩く。
「堀川君、こっちに座ってお茶でも飲みなよ。お菓子もあるよ」
「あ、如何もおおきにー。ってお婆ちゃん、この羊羹めっちゃ良え奴じゃないですか」
隣の席を勧めた奏一郎とお茶と菓子類を出した尼僧に対して清は素直に頭を下げる。出された羊羹を頬張る様子を孫のようだと思いながら、義武も彼女に礼を述べてからお茶と煎餅に口を付ける。寛いでいるが、背筋は伸ばしたままだ。
「ん、良い煎餅ですね。熱い茶によく合う」
「話が分かる若者じゃのう。此奴とは大違いじゃ」
饅頭を喉に詰まらせた竜司を指して尼僧は茶を啜る。煎餅を一枚食べ終え、それでも未だ呻き声を上げる幼馴染の背を叩いてやった。漸く喉に詰まる饅頭から解放された竜司が尼僧へと凄むも、状況が状況なだけに彼女に堪えた様子は皆無だった。
「やりやがったな……!」
「此処で騒ぐ方が悪いんじゃよ」
「正論だ。で、一体何があった」
竜司をバッサリと斬り捨てて改めて義武が事の顛末を尋ねる。しかし、詳細を話せばそれなりに複雑、かつ恐怖を煽る事にもなりかねない。その為少しばかり奏一郎が云い淀む。
「何があったのか本当に聞きたい? 後悔するかもしれないよ」
「今更な事を聞くな」
「そうですよー。もったいぶらないでええんですから」
あっさりと承諾されては話す以外にない。幸い、直接異形達を見ていないせいもあって二人が受けた衝撃はそれ程大きなものではなかった。義武は「相手にするには厄介だな」と眉を寄せ、清「ほんまに居るんですね……」と顔を青ざめさせた。
「でもお二人共、無事で良かったですよ」
「本当にねぇ。婆様の処に来れて助かったよ」
「俺は此奴に連れられただけだけどな」
「臍を曲げるな。近い内にまた、礼に伺います」
「気にせんでええって。……ま、気を付ける事じゃのう。奴等はしつこいでな」
言葉に僅かな含みを感じるも、それを追求する事は何故か憚られた。代わりに対峙する事になるであろう異形と、その背後にある存在に各々が思考を巡らせる。其々に抱えた想いを以て。
そうして、ある筈でなかった会合と共に夜は更けていった。
*****
「……本当に、この店に入るのか?」
かの有名な『資生堂パーラー』の店舗を前に、正気を問うかのような声を零したのは義武だ。余りにも不似合いではなかろうか。店の人間から奇異の目で見られるのは明らかだろう。門前払いをされた処で文句は云えない。
「この街を離れる前に、一度来てみたかったんだよねぇ」
この店を集合場所に指定した奏一郎が楽しげに口遊む。残る二人も何処か上機嫌だった。
「噂には聞いた事ありますけど、初めて入ります。めっちゃ楽しみや」
「俺もこんな洒落た店は初めてだ。どんな具合か見てやろうじゃねぇか」
三対一では分が悪い。如何とでも為れと内心で義武は匙を投げた。
そうして瀟洒な建物の中に入ろうとしたその時。四人に――正確には、ある一人に対して掛かる声があった。
「一寸待ち給え、其処の君!」
其処に仁王立ちしていたのは今風に整った顔立ちの若い男だった。一目見て仕立ての良い洋服に身を包んでいるも、それらを見事に着こなしている。その男は怪訝気に振り向いた竜司に向って白い手袋を投げつけた。顔面に当たる直前で鷲掴みにして、竜司は男に凄む。
「嗚呼? 何だ、手前」
普通の人間であれば即座に逃げ出すであろう剣幕にも全く怯む様子がない。それだけでもこの男が只者でないという事が知れた。或いは本物の馬鹿か命知らずか。呆気に取られる三人を他所に、竜司は手袋を投げ捨てる。清が大慌てで地面に落ちる寸前で拾った。
「何だこりゃあ。道に落ちてたものを拾ったならそいつの物になっちまう。それが世の道理だ。つまりこの手袋は今此奴の物だ」
背後で混乱の極みと云った様子の清を指して竜司が云う。しかし男は嘆かわしいと云わんばかりの勢いで、声高に詰め寄った。
「つまりお前は! 静流さんを掛けた決闘に乗ってこないという事か!?」
言葉の意味が分からずに竜司の眉間に皺が寄る。其処で漸く我に返った清が竜司に耳打ちをした。最年少で振り回されてばかりだが、実は博識な彼は正しく男の行為の意味を知っていた。
「西洋の方の風習で、手袋を投げつけるのは決闘の合図っていうんがあるんですよ」
その習慣は初耳ながらも、幾らか竜司は納得した。つまりは喧嘩を売られたと云う事だ。相手が何処の誰か等、些細な問題だった。
「そいつを寄越せ」
云うや否や清の手から手袋を奪い、男に対して投げつける。受け取った男は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「これを返して来るという事は、矢張り静流さんに相応しいのは僕だと認めたと云う事だね」
傍目に見ても、絶望的に会話が噛み合っていない。かと云ってこの二人の間に割って入るには抵抗がある。結果何処に転がっていくのか分からない応酬が三人の眼前で繰り広げられて往く。
苛立たし気に竜司に胸倉を掴まれても男は矢張り平然とした態度で胸を張っていた。
「兄ちゃん、此処が何処だか分るか? 此処は日本だ。日本の遣り方で話をしようじゃねぇか」
「成程、それもそうだね!」
「話が早くていいじゃねぇか」
「……待て」
そのまま裏路地に入り込んで一悶着起こしかねない勢いの二人に、流石に耐えかねた義武が割って入る。奏一郎もそれに倣った。お前達、と生真面目の権化のような男が二人に冷めた眼を向ける。
「揃って国の流儀云々以前に世の常識というものを弁えろ」
義武が竜司の肩を掴んで制止する。正論極まりない台詞に、清がブンブンと首を縦に振った。
「時と場所を考えてほしいねぇ。此処は天下の資生堂パーラーの前だよ」
奏一郎が男の背に軽く手を掛けて諭す。これまた清が全力で首を同じ方向に振った。同意の意を示すその仕草は、さながら遠方の工芸品のようであった。
其処で漸く男は竜司以外の存在を視界に認識したのだろう。奏一郎を見て「ん?」と首を傾げた。
「此奴は御後田のお坊ちゃんじゃないか。俺の事を知らないっていうのかい?」
男の言葉に奏一郎は「いいえ」と常と同じ微笑を崩さずに返す。如何やら奏一郎はこの男と面識があるらしい。
「存じ上げているからこそ、此処で事を起こすのは得策ではないと云っているのですよ。まさか、あの赤坂の旦那が不動の旦那と一悶着構えるなんて、皆様に噂されたくないでしょう?」
「いいや、そんな事は無いさ。俺は彼女の恋の奴隷である以上、何処であろうとその愛をきちんと晒さねばならんのだよ!」
「おや。静流は『荒っぽい殿方は嫌い』と申しておりましたよ?」
奏一郎の言葉に男二人の表情が揃って絶望的なそれへと変化する。実に見事な変わり様だった。ようやく訪れた沈黙の隙を逃さずに、男の方ではなく奏一郎の方へと義武は尋ねた。
「知り合いか?」
直接当人に尋ねても面倒な事にしかならないだろうという義武の判断が間違いではなかったと云わんばかりの態度で奏一郎は頷いた。
「うちの事を贔屓にして頂いている旦那のお一人です。……そして、静流の手付金を払って頂いた御仁でもあります」
つまり。今のままであれば静流はこの赤坂という男のものになるという事だ。そして、如何やら奏一郎が今この時期に動き出した背景には赤坂の動向も関係しているらしい。
手付金とは云え、高級娼妓を見受けするとあっては相当な金が必要だ。それを用意できたという事は、赤坂は相当な資産家と見て間違いない。よくよく見てみれば彼が身に纏っている洋服も先程投げつけた手袋も、この辺りでは滅多にお目にかかる事の出来ない上等なものだ。しかし、それだけの財力を持っているにも拘らず『赤坂』という名に聞き覚えは無かった。聞けば帝都で事業を起こしそれが当たったという事らしい。赤坂の生まれ自体はこの神戸、母親が福原の遊女という話だ。
「この手袋、めっちゃ良えやつですやん! 此処の釦の細工とかも一級品ですけど!」
押し付けられた手袋の上質さに気付いた清が小声で竜司に囁く。矢張り、誰とも知らない相手であるより多少なり情報を得た方が冷静に観察出来るようになるらしい。
それを知ったから、という訳でもないのだろうが。それまで胸倉を掴んでいた手を一度離す。
「詰まり。手前は俺に喧嘩を売りに来ただけって事か」
「僕は話し合いに来た心算なんだけどな」
白昼の往来で手袋を投げつけてくるような真似をしておいて『話し合い』というのは如何なものなのだろう。しかも竜司と違い、赤坂は手袋を投げつける意味を正しく理解しているにも係らず。困惑の色も露な清をそっと奏一郎が手招きした。
「あの方……ちょっと面白い方なんですよ」
何とも曖昧な比喩表現だが、全てを察するには十分だった。背後で聞いていた義武が頭痛を堪えるかのような顔付きで額に手を当てている。しかし、背後の三人の百面相など気にも留めていないといった様子で竜司は赤坂に詰め寄った。
「俺は、金がこの世で一番大事なモンだと思ってる。だから、手前が金を払ってあの女を手に入れる事に対して文句を云う気は無ぇ」
それは不動 竜司と云う男の長年の持論だった。裏切る事も揺らぐ事も無い、確かな価値と指標である。世を回すもの、生きていく上で必要不可欠な手段。それら全てが集約されているものが金だ。
「だが、金に代えられないものがある。それが何か分かるか?」
「愛ですね!」
迷いの無い即答だった。そしてその答えは竜司のものと同じだった。分かっているじゃねぇか、と零された声に、取り残された三人がまたも遠い目になる。相も変わらず三人を他所に二人は互いに相手を見遣る。話が早いと、先に額同士が触れ合う直前の距離に顔を近づけたのは竜司の方だ。
「手前とは金の話はしねぇ。勝負する土台は互いに分かっているようだからな。――俺はあの女を手に入れる」
「無論だ。君の愛が本物ならば僕は手を引くべきなのだろう。だが、僕の愛もまた本物だ。お互い、何方が彼女を愛しているか、きちんと白黒付けたいと思ってね」
「良いじゃねぇか。白黒つけるっていうのは大好物だ」
片や獰猛に、もう片や満悦に笑う。あわやこの侭この場所で遣り合う心算かと、義武と奏一郎が秘かに身構える。しかし、如何やらそれは杞憂に終わりそうだった。
「だが、突然押しかけてきて此処で勝負を着けよう、なんて云う心算はない。次の新月の夜、彼女を掛けて闘おうじゃないか」
破天荒で非常識な割に、妙な処で律儀な性分の男である。一先ず竜司はその提案に頷いて見せるも、不意打ちで赤坂の腕を掴もうとする。しかし、力を受け流すようにしてするりとその腕は抜けた。優男然としており、実際今も涼しい顔をしているが、それなりに喧嘩慣れをしているらしい。
「善いぜ。遣ってやろうじゃねぇか。少なくとも良い勝負にはしてくれそうだからな」
「其方もね。彼女への想いも如何やら本物のようだ。同じ恋の奴隷として、美しい彼女への愛を賭けた決闘に相応しい」
うっとりと、静流への愛を語る。その様は酷く情熱的、もとい狂信的とも云えるものだった。赤坂の言葉には太い眉を寄せる。舌打ちを隠そうともしなかった。
「男が往来で何度も愛だの恋だの口にするんじゃねぇ。安っぽくなるだろうが」
「そういう日本の古き男と云うものに価値を見出している内は僕に勝機があると思うがね」
竜司なりの照れ隠しを赤坂が鼻で笑う。
「何度でも云わせてもらおう。彼女を最も愛しているのは、この僕さ! ――では、去らばだ!」
現れた時と同様に、高らかな声を上げて彼は四人の前から立ち去った。この一連の騒動を遠巻きに見ていた周囲の人間達は、皆揃って歩みを進める赤坂に道を譲る。関わりたくないという気持ちが有々と分かる光景だ。
「彼奴……最後まで隙のない男だったぜ」
去って往った方向を見遣る。妙に感心を帯びているように聞こえたのは決して錯覚ではないのだろう。三人の方を振り返った竜司が実に今更な問いを口にした。
「……で、彼奴は何て名前なんだ」
余りにも強烈過ぎて当人から名を聞く事を揃って失念していた。奏一郎が『赤坂の旦那』と呼んだので一応は分かっているけれども。この落ちに至る迄が、まるで流行りの新聞連載の如き一幕であった。
「赤坂 弥次郎さんですよ」
答えた奏一郎の声だけが、その場に残されたものだった。