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学問なんて、好奇心がなければやっていられない。それが二十年にも満たない人生における己の持論だった。此処まで巻き込まれる事になったのは自分の好奇心のせいだ。それは否定しない。後悔も無い――そう、思いたかった。
生来から培った理性と意思が、植え付けられた本能に脅かされる。堪える事が困難になる程に、一刻毎に増してゆく。今の自分は。一体何に従えば良いのだろうか。


 *****


 

斯くして、その夜はやって来た。
黒い手袋が夜更けの昏い空を舞う。竜司がこの日の為に用意した物だ。歯で引き抜かれたそれは一直線に赤坂へと投げつけられた。
「今度は俺から喧嘩を売ってやる。当然買ってくれるよなぁ、赤坂?」
「成程……良いぞ! 静流さんへの愛を囁く男と云うのならば、そうでなくては!」
片頬を釣り上げる竜司に対して、赤坂もまた不敵に笑ってみせる。この場に居合わせている他の人間達を置き去りにしている事実など彼等には些細なものだった。赤坂は宵の闇に両手を広げて、まるで芝居の一幕であるかの如く高らかに宣言する。
「さァ決闘の刻がやって来たぞ! 静流さん、見ていてください。僕の、貴女に対する愛を……!」
囁くとは到底云い難い語調で告げ、次いで楼主の方を向く。
「楼主様! 手出しは無用でお願いします。これは静流さんを掛けた神聖な決闘なのですから!」
心得ている、と。耳から聞こえる声と云うよりも脳を直接揺さぶるような響きとして届いた。
連れ出した筈の静流がいつの間にか楼主の元に居るという事実に、この時になって初めて彼らは気付いた。俯いて肩を震わせている彼女はまるで見えない糸でその場に縫い留められているかのようだった。『銀の黄昏』等と云う怪しげな組織の長であれば、面妖な術の一つや二つ使役出来た処で不思議ではないのだろうが。そもそも異形のモノ達を前にして、今更常識など並べたところで無意味だ。
――そう。赤坂の背後には、数日前の夜に竜司と奏一郎を襲ったモノ達と同じ姿をした異形達が数体控えていたのだ。
「処で手前、其奴等は一体なんだ」
「ん、彼等か? 彼等は僕と静流さんの仲を祝福してくれる素敵な仲間達だ。良い友なんだぞ」
「いや、如何見てもヒトじゃねぇだろ……」
一際大柄な親玉格と、その配下と思しき異形が数体。何れも此方を見下すかの如く胸を張っているように見える辺り、赤坂と云う男の仲間と云えばそれらしいが。
「何を云い出すんだい。ヒトとかヒトじゃないとか、そんな事が関係あるのかい?」
何が不可解なのかと云わんばかりの反応こそ、竜司達からすれば理解に苦しむ。とはいえ、それを真正面から指摘してみせても話は平行線を辿るばかりだ。
それはそれとして、と。竜司に代わって口を開いたのは奏一郎だ。
「赤坂の旦那。決闘と云えば、一対一のタイマン、って云う奴になるんじゃないのかい?」
「うん? だから、俺は彼と決闘をするぞ」
「はぁ。じゃあ、後ろの四人のお友達は?」
「恐らく君達の相手をしてくれるんじゃないのかな? 特に其処の軍人さんとか、彼の相手をしながら戦うのは一寸御免だ!」
「んん……いや、ね。不動の旦那はアンタとサシでやり合う心算だと思ったんだけどね」
「ん? 俺は彼と一対一だぞ?」
矢張り会話が噛み合わない。「面白いねぇ」と諦めが混じる乾いた笑いを奏一郎は浮かべた。同時に軽く拳を鳴らす。
「そういう事なら、僕が不動の旦那の側に付くので、宜しく」
「彼女の兄である君から祝福を受けられないのは少し残念だが、致し方無いね」
少しばかり寂しげに笑った。如何やら残念という言葉は丸っきり嘘ではないらしい。しかし、そんな繊細な様子等、対峙する四人は気に留めていられなかった。
言葉を切ったと同時に赤坂の姿が変化する。尖った耳と水掻きの様に伸びた指の皮膚、肌は滑りを帯びた青色へと。背後の異形達程ではないにせよ、その姿はもう〝人〟とは呼べないものだった。義武がその様に眉を寄せる。日本刀の柄に手を掛けた。
「遂に化けの皮が剥がれたか」
「アハハ、何を今更云っているんです。僕らは皆同じだというのに」
「同じであって堪るか」
愉快げな笑い声を舌打ちと共に切り捨てる。赤坂の仄めかす言葉の真意を正しく理解出来ているのは自分の他に数名。その数を増やす心算は無い。
流石に虚を突かれた竜司も、赤坂と義武の問答に直ぐに我に返った。一度指を鳴らし、血管が浮く程に固く握った拳を掌に押し当てる。
「随分殴りやすい面になってくれたじゃねぇか。手前が仲間を連れて来た事に四の五の云う心算は無ぇ。俺も此処に一人で来た訳じゃねぇからな」
義武と、清と、奏一郎。この場で誰一人と欠けて良い者達ではなかった。
ふと。黙ったまま赤坂の変貌を凝視している清の顔が竜司の目に入る。蒼白と云った顔色の彼は、思えば此処に来る前から一言も喋っていない。異形のモノを目の当たりにするのはこれが初めての筈だ。元より荒事に不慣れな彼が恐怖に襲われ動けなくなるのも別段可笑しな事ではない。
「如何した堀川、ビビッてんのか。お前は一応堅気だからな、下がっててもいいぞ」
気遣いめいた台詞に何かを返そうにも、清が言葉を紡ぐ事は無かった。意識とは別の力によって、身体はこの場から離れる事を拒絶している。
尤も、そんな葛藤を竜司達が正しく理解出来る筈がなかった。気遣いと不審が混じった視線を清へと向ける。
「……ごめん、なさい!」
やっとの事でそれだけを、半ば叫ぶように零す。その意図と彼の抱える事情を察する事が出来たのはこの場では義武のみだ。確証こそ無いが凡その推測はしていた。今の件でそれがほぼ確定である事も理解した。当たってほしいものでは無かったが、今更それを云っても詮無き事だ。そもそも到底云えた代物でもない。
只、一言。清にしか伝わらないであろう台詞を義武は口にする。
「何かあったら始末は付けてやる」
そう云ってから「竜司」と呼ぶ先を変える。
「お前のやる事は決まっているだろう」
「当然だ。あの赤坂 弥次郎の顔面をブチ抜いてやる事だ」
「その先は?」
それはあくまでも過程であって、本来の目的ではないだろう、と。重ねられた問い掛けに対し、返す言葉に迷いは無かった。
「俺の女を連れて、此処から帰る」
不敵に笑う。望み通りの答えに、ほんの僅かに口元が緩む。
「上等だ。それだけ考えていれば良い」
確信と実現を込めて断言した竜司と、それから清へと視線を向けて義武は告げる。其処に先程浮いた柔らかい色は無く、躊躇いと恐れを捨てた覚悟だけが在った。
「後は何とかする」
それを聞いて、清の強張った顔に幾らか安堵の色が浮かんだ。
「なら……お願いします、ね」
「嗚呼、任された」
「任せてくれて大丈夫さ」
何処か泣きそうな顔をした清に、義武と奏一郎が同時に云う。頭の回る、勘の良い男だ。全貌とは云わずとも、薄々事情を察している面はあるのだろう。竜司にも、其処迄ではないにしても清が何かしら抱えている事は分かる。しかし、今は任せろと云った幼馴染達を信じ、己の為すべき事に全力を注ぐのみだ。
不要だと云わんばかりにコートを脱ぎ捨てる。腰を落とし、相手の挙動を一つたりとも逃さないと目を据える。戦闘態勢の構えを取った。
「待たせたな。――良いぜ、やってやる。掛かって来い」


 *****


 

各々が戦いの為の間合いを取る。竜司へと近付こうとした赤坂が、意図せずして親玉格の異形へと向かった奏一郎と衝突してしまったのは双方の不注意によって起きた不幸な事故だった。
「ちょっと赤坂の旦那! 不動の旦那にしか手を出さないって云ったじゃないか!」
「いやぁ、これは不可抗力と云う奴じゃあないのかな?」
「でも、これで旦那は僕に手を出した。と云う事は、僕は君を殴っても良い!」
「お、おおう……んん? そう云うのならそうかもしれないなぁ!」
何とも無茶苦茶な云い掛りだが、相手は赤坂だ。その一方で、竜司の往く手を阻むように清がふらりとした足取りで彼の前に立つ。移動の勢いを殺しきれず、二人もまた互いに軽傷を負う羽目になった。
「おい堀川ァ!」
「……、っあ、ごめん、なさい……!」
一瞬ハッとしたように竜司に謝罪をするも、清の様子は如何にも読めない。「やり辛ぇ」と零した声は清の耳に入っていなかった。
彼らから距離を少し置いた処で親玉格の異形は歪に口角を上げてみせる。直接殴りに掛かる様子こそ無いものの、その周囲には禍々しいまでの殺意が満ちている。相手は異形のモノだ。奇妙な術を使って不思議では無い。
青緑の唇からくぐもっているばかりでなく聞き慣れない音が漏れる。周囲の空気が歪む。妖術の類か何かだろうかと判断し――それが狙う対象に気付き、義武は声を張る。
「竜司!」
避けろ、と檄を飛ばす。見えない攻撃ではあるが、だからこそ中れば致命傷を負う事は避けられない。異形を正面に見据えながらも、しかし声は楼主に囚われた静流に向ける。
「静流! 手前はまともに喋れるようになる。俺は、それを知っている」
彼女の声を聞いたから。数日前の夜に――それよりも遥か以前に、竜司は静流と会話を交わした事があるのだから。
幼少の頃、竜司は周囲の大人達や義武にすら内緒で遊郭に訪れていた。其処には当時、彼の母親が身を寄せていたからだ。その時に出逢ったのだ。障子越しにではあるが、それはきれいな少女と。美しい声の彼女と言葉を交わした記憶は竜司にとって掛替えのないものだった。かつての少女こそが静流だった。また静流も、当時の少年が竜司だと分かっていた。
静流は何か言葉を返そうして、しかし紡がれるものはなく、代わりに彼女の瞳からはらりと涙が零れ落ちた。
「泣くんじゃねぇよ……これが終わったら、手前は泣かなくて済むようになる」
そう断言する姿は、やくざ者一家の若頭等ではなく、昔に出逢った彼女を心底愛している只の男のものでしかない。
何故静流が普通に喋る事が出来なくなってしまったのかは分からなかった。しかし、今となっては声を失った原因は此の場所に在る事は明らかだ。ならば、その根源を叩き潰して其処から連れ去れば良い。それだけの話だ。本懐を遂げるまで決して倒れてはならないという想いは男に力を与えた。不可視の攻撃を竜司は見事に避け切った。
それと同時に義武が親玉格の異形へと距離を詰める。最初から竜司が避けると確信しての動作だった。奇妙な術に力を注いだ分、相手に接敵するのは容易だった。
懐に入る、その直前で流石に気付かれたけれど、それでも剣の範囲内だ。一度は巨体が刃の切っ先を避けるも、その際に体勢を崩す。配下の異形達が巨大な異形を庇うように群がるが、出来た隙を逃しはしなかった。向ける慈悲等最初から持ち合わせてもいない。
間髪入れずに一閃した刃が、配下達の全員を切り倒した。どさりと鈍い音を立てて物云わぬ身体が地面に転がる。
「小賢しい」
本体に剣が届かなかった事に舌打ちを漏らし、刀身に滴る粘液を振り払った。しかし、これでもう親玉格の異形への攻撃を邪魔するものは無い。先程の妖術の影響だろうか、異形の動きは鈍い。畳み掛けるのならば今しかない。義武の視線の先には奏一郎と竜司が居る。揃ってこの好機を逃がすような真似はしない男達だ。
先に頷いた奏一郎が即座に異形へと距離を詰めた。にこり、とその顔には喰えない微笑が浮いている。
「此処から離れられるのであれば云う事無しだ。何より、静流が初めて手を伸ばした相手だ。〝お兄様〟としては、その仲立ちをしないといけないねぇ」
だから。邪魔をする相手には容赦はしない。今なお聞こえ続ける呼び声を振り払うように大きく脚を振り上げて、落とす。渾身の蹴りを異形へと喰らわせた。意図せずして急所に入った一撃に異形は低い呻き声を漏らす。
「一寸、本気を出し過ぎたかな。岩田君の見せ場を取ってしまったようだし」
溜め込まれた狂気への鬱憤が暴露したのだろうか。軽口に義武は肩を竦めた。
揺らいだ異形の巨体に、流石の赤坂も完全に無関心とはいかなかったらしい。僅かに意識を其方に向けた。
「む、彼等がピンチかな? 嫌しかし、僕が戦うべき相手は唯一人! 貴様だけだ不動 竜司!」
「上等だ! 掛かって来い赤坂ァ!」
異形の陰湿さとは完全に別次元の勢いである。人の姿をしていた時からそれなりの手練れであった赤坂が、異形の姿と成った今の方が弱いとは到底思えない。体力も常人のそれより有ると見るべきだろう。しかし彼は親玉格のような奇術を用いる事はしなかった。宣言通り竜司へと拳を向ける。軽やかな身の熟しで振り降ろされた重い一撃を、しかし竜司は避け流した。
「ただなァ、手前の相手は後でしてやる。それまで待ってろ!」
この場に於いて厄介なのは親玉格の異形の操る奇術だ。彼方を先に対処しなければ自分達の身が危うい。幸いにも相手は手負いだ。
愛用のドスを抜いて親玉の懐へと駆ける。奏一郎の横を抜け、義武に背を預け――勢いを殺す事なく、刃を慣れた手つきで異形へと突き立てた。急所を貫かれた異形は断末魔を上げて、その巨体を地に伏せた。
「汚ぇモンを斬らせやがってよぉ」
返り血、もとい鈍い緑色の粘液を拭う。援軍の異形達はこれで全て動かなくなった。
残る相手と云えば赤坂だけなのだが、この場の流れで清が赤坂を殴る事に一抹処ではない遣り辛さが漂うのもまた事実ではあった。
一瞬、清の身体が竜司の方を向く。けれど、僅かに見せた躊躇いを振り切るようにして、彼は徐に鞄から分厚い本を取り出し一直線に赤坂へと向かった。
「〝赤の他人〟なんて云ってますけど――他人でも首突っ込んだかもしれんけど。でも、そもそも〝他人〟やないんやから……」
行動の対象こそ赤坂だが、その言葉は紛れもなく竜司に向けられたものだった。
「せめて、兄の門出くらい祝ったってもええでしょう!?」
云うと同時に、清は赤坂を本で殴りつける。分厚い装丁のそれは鈍器と云っても過言ではない。ぐらり、と赤坂の身体がよろめく。
しかしその光景を見ていた周囲が受けた衝撃は、ともすれば殴られた赤坂より大きいものだったかもしれない。
「親父は違うけど、でも……居辛い家飛び出して来たら、まさかこんな処で逢えるなんて思わへんやろ」
清の母親は、この福原遊郭に身を置く遊女だった。堀川の男が気紛れで孕ませた子供を引き取った理由は、当時彼に跡取りとなる息子が居なかったからだ。その為だけに清は産まれてすぐに母親から引き離された。しかしその直後に本妻が男児を産んで以来、彼は家から疎まれる存在となった。勉強の機会だけ有難く受け取って家を出た。何かに呼ばれるようにしてやって来たこの土地で、まさか異父兄に出逢うとは思わなかったが。
父親は異なるものの、確かに血を分けた弟が居るという驚愕の事実に竜司は盛大に目を見開く。目を見開いた表情は心なしか幼く見えて、そう云われてみれば清の面影と重なる部分があった。先日からちらついていた既視感の正体はこれだったかと、義武はある意味で納得した。
「しかし、一体如何した星の下の巡り合わせだ」
「そういうものさ」
偶然の一言で済ませるには余りにも全てが出来過ぎている。思わず遠い目になってそっと天を仰ぎ見た。
「だから……身内として、これくらいやってやりますよ!」
肩で息をしながら叫ぶ。身体は震え、涙目になっているものの、元より荒事に不慣れな清にしては大健闘と云っても良い活躍だった。しかし。
「っ……ふふ、中々頑張るじゃあないか。でも、もうその辺りが限界かな?」
本が中った処を擦りながら赤坂が笑う。その不吉な言葉の通り、まるで最後の力を振り絞ったかのように清の手から本が滑り落ちる。気力を湛えていた瞳は掠れてゆき――彼が赤坂から竜司の方へと振り向いた時には、敵意すら浮かべた虚ろな眼が其処にあるだけだった。
竜司は臆する事なく睨み返す。彼の見せた変化に何かを云いたげ視線を奏一郎から向けられた義武は、しかし何も云わずに首を横に振った。見当こそ付いているが、だからこそ二人には云えたものではない。
「赤坂の相手はお前に任せた」
云って清へと視線を向ける。一先ずはと峰打ちを狙おうと距離を詰めようと迫るが、それよりも先に剣の範囲外へと逃げる。
「只ではいかんか。……だが」
義武の視線の先、清の背後には奏一郎が構えていた。彼の方に向かうようにある程度は剣を払った甲斐があった。脚を振り上げた折に草履の鼻緒が切れ掛け体勢を崩すも、それすらも陽動に見せて蹴りを入れる。捉えは浅いが、確かに入った。
三人の攻防の横で、二人の男の決闘に終止符が打たれようとしていた。
人外の姿から繰り出される拳は速く、重い。掠めただけでも身体に響く。直撃を受ければ竜司といえども一溜りもない。
重心を低く落とし、一瞬動きを止める。その僅かの間に息を吐いて、低い姿勢のまま赤坂の懐へと距離を詰める。その速さに赤坂は確かに虚を突かれた。直ぐに迎え撃つ拳を揮うもそれはただ空を切るだけだった。ドスを握り締めた拳が異形の腹を捉える。感じた手応えのままに力を籠め、そのまま赤坂の身体を吹き飛ばした。
「良い拳だった。ただ、手前にあの女は渡さねぇ」
「つッ……お前の、愛は……本物、か…………っ」
どさり、と云う鈍い音と共に赤坂の意識も落ちた。辛うじてまだ息はあるものの、当分起き上がる事は無いだろう。
これで倒さなくてはならない相手は一掃した。本来であれば此処で終わる筈だった、のだが。
清が我を失った虚ろな視線を三人に――主に竜司へと向ける。呼び掛けは無意味だろうと直感的に悟った。向けられたそれに彼は臆するでも困惑するでもなく、逆に睨み返してすらみせた。
「手前も訳の分からねぇ事に巻き込まれてるみてぇだな。仕方ねぇ、舎弟のボロはこっちで面倒を見てやる」
しかし、やる事と云えば暴力に訴えるしか手は無いのだが。手で拳を打ち、構える姿勢を取る。義武も奏一郎も傍観している心算は無かった。其々に構えを取る。
機を計り、暫く硬直が続くかと思われた矢先、全員が一斉に動き出す。その中で最も速かったのは竜司だった。握りしめていたドスを徐に手放して、拳で清を殴る。元の体格差と、既に奏一郎達からの攻撃で負担が重なっていた身体はいともあっさりと崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
小さく呟いて清は気を失った。倒れこむ寸前で担ぎ上げたのは殴った張本人だった。
「いやぁ、見事な拳だったね。良い物見せてもらったよ」
「三味線で祝ってくれても良いんだぜ」
「本当かい?」
「正気かお前達」
呆れを隠さない視線を向けながらも、義武は竜司の肩をぽんと叩く。労いの意図を込めたものを向けると同時に担いだ清を自身の方へと移した。
「お前は彼方だろう」
そう云って静流の方へ向かうように促す。彼女は一人、建物の陰になる処に伏せっていた。慌てて駆け寄って様子を見る。意識を失っているが脈も呼吸も正常だ。血生臭い戦闘をある程度見ずに済んだと考えれば悪い事では無いだろう。静流自身に異常は無いものの、不穏な点を挙げるのであれば、それまで彼女を捉えていた筈の楼主の姿が何処にも見当たらない事だった。
「楼主は何処に消えやがった」
「お前が赤坂を殴り倒した時には、既に姿が無かった」
「逃げ足の速い男だねぇ」
「だが、今が好機か」
清にしたように静流を担ごうとして、しかし直前で思い留まる。少しばかり角度を変えて、彼女の身体を横抱きにした。上出来とばかりに義武は顔を伏せ、奏一郎が「良く出来ました」と笑った。
「後は此奴等だが、如何する」
気を失い地面に転がっている赤坂及び他の異形達を足蹴に云う。意識は無いものの、殺しきれているという確証は無い。因縁のある彼等をこのまま放置しておくのは余りに不用心だろう。自分達にとっても、またこの近辺の人間達にとっても異形の存在は脅威そのものである。
「二度と動けぬようにしておくのが世の為だ」
「なら、埋めるか。沈めるより確実だろう。しかし此奴等、人と同じようにして死ぬのか?」
青い肌に人と魚の入り混じった者達が果たして人と同様の手順で始末が出来るのか疑問はあるが。とはいえ、そのまま転がしておくよりも出来る限りの手段を講じておいた方がまだ安心出来る。相手が相手なだけに不穏極まりない話は避けられない。静流と清の意識が無くて良かったと内心で義武は思いながら言葉を返す。
「心臓を刺して止めるだけでは足りんか……四肢を落とすのは手間だが、縛るよりは確実だろう」
「埋めるならあの男の手が届かない処にした方が良いだろうね」
騒ぎに紛れて姿を消した楼主が今後不穏な事をしないとも限らない。あまり時間を掛けていられないが、不安の種は自分達の手で潰しておきたかった。
「斬り落とすまではやるか。埋めるのは組の奴らに任せる」
「それなら顔は覆っておいてやろう。見てしまっては気の毒だ」
「まぁ、あれだ。此奴等を潰せるんならウチの連中達にとって悪い土産にはならねぇからな」
ざっくばらんと竜司は云ってのける。彼自身は神戸を離れる覚悟は決めていても、この土地に残る不動商会の者達の事を案じていない訳ではない。結論として、出来る限りの処理をその場で行い後の事は伝令で済ませる事にした。後始末は義武が買って出た。
「俺がやる。ドスで首切りは無理だろう」
「頼むぜ。その刀の錆にするには勿体無ぇ連中だけどな」
「気にするな。これは、その為の物だ」
「本当に君はその辺り頼もしいねぇ」
一度清を下ろしてから義武は日本刀を揮う。異形であっても物云わぬ相手を切る事は難しい事ではなかった。手早く後処理を済ませてから再度清を担ぐ。その際に竜司はある意味当然とも云える疑問を口にした。
「一体如何して其奴は可笑しくなったんだ? 手前には心当たりがあるんだろう」
ほんの僅かに間が空いた。しかし直ぐに、義武は揺るぎない声色でこう答えた。
「治す当てなら知っている」
「如何して〝ああ〟なったのか分からない、とは云わないんだね」
「云わなかった彼の気持ちを組んでやれ」
 それ以上を義武は語らなかった。その態度は数日前に河原で見せたそれと同じものだった。決して答える心算はないと。但し、それは相手を陥れるものとは真逆の、真摯に此方を思うが故の頑なさであると今の竜司は理解している。事実。事情に察しは付かなくとも、彼は彼なりに対峙した清に対して思う処があったのだ。
「彼奴、最後には手前から殴られに来やがった。ああいう手合いを如何にかまともにする方法なら俺にも心当たりがある」
恐らくそれは義武の考えとも同じだ。また奏一郎も同様に察しは付いていた。
「よし。寺に行こうか」
奏一郎の掌がぽんと軽やかな音を立てる。提案には竜司も義武も異存はなかった。
そうして唯一身軽な奏一郎の先導の元、竜司と義武、其々に抱えられる静流と清の五人は福原遊郭の闇を抜け出したのだった。

 

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