物心付いた時から聞こえる声があった。それが異質のものと気付いたのは、一体何時の事だっただろう。本能的な恐怖から逃れたいと思うのはごく自然な欲求だった。掻き消えてほしいと、どれ程願ったかしれない。
同時に、見捨てられないものがあった。か弱く、愛しい存在。守りたいと思うものを抱えながら、恐怖に擦り減る心を抱える日々。それに終止符を打つ為に、ずっと足掻き続けてきた。
*****
強烈な襲来を受けながらも如何にか資生堂パーラーで席を確保する事が叶い、洋菓子を肴に今後の動向を擦り合わせる。元より余り時間を掛けていられるものではない。赤坂の存在がそれに一層の拍車を掛けた。日の高い時間帯であれば異形の者達に襲われる事も無いと踏み、二手に分かれて情報収集を行う運びとなった。
その片方。奏一郎は竜司を伴って、あの尼寺へとやって来ていた。
「お婆ちゃん、また来たよ」
「へい、らっしゃい」
昨夜と同様に、尼僧は二人を境内の縁側へと招き入れる。彼女なりの冗談だとは分かるけれど、何とも剽軽な物云いだ。くすくすと奏一郎は笑った。
「いつから此処は寿司屋になったのかなぁ。それとも寿司の用意があるのかな? それなら桶の奴がいいな」
「生憎と魚は嫌いでね」
茶を啜りながらにべもなく返事をする。彼女の指向はそれとして、奏一郎も正直な話をすれば今は寿司を食べたい気分ではなかった。
「僕も、昨日あんなものを見たばかりだからなぁ」
「全くだぜ。俺は立ち食い寿司が大好きだってのに、今日は食う気にはなれねぇな。……で、御後田。俺と寿司の話をする為に此処に連れてきたのか?」
その心算で無い事は竜司自身も分かっている。文字通り、昨日の今日で此処に二人でやって来た事に理由が無い筈がない。にやりとした笑みに対して奏一郎は軽く首を振った。
「昨夜はあまり深く話が出来なかったからねぇ。お婆ちゃんが寝ないうちに色々聞きに来たって訳さ。……大丈夫、この人は信頼出来る人と見ていいよ」
「こんな婆に俺が如何にかされるとは思っちゃいねぇが」
「ほん。口の減らない若造な事じゃ」
肩を竦めながらも三人は揃って尼僧の持ってきた茶を啜る。湯呑みの中身を飲み干した奏一郎が徐に尼僧に向き直った。
「お婆ちゃん。この場所について何か教えてくれるかな?」
あまりにも直球が過ぎる物云いだ。思わず隣で聞いていた竜司の目が点になる。答える代わりに無言で茶を啜るばかりの尼僧に、奏一郎は「仕方ないなぁ」と三味線を構え撥を手に取った。
「お婆ちゃんが話したくなるように、この三子の演奏を聞かせてあげようじゃないか」
思わずあの竜司の口から「何でそうなる!?」という言葉が漏れる。しかし、それを気に留めた様子も無く奏一郎は三味線を鳴らし続ける。
どれ程三味線の音色が流れた事だろう。根負けをしたのは尼僧の方だった。
「あぁ、分かった分かった。煩い」
そう云われて奏一郎は演奏の手を止める。にっこりと微笑むむその様に、尼僧は胡乱気な顔を向けた。
「しかし、一体如何いう風の吹き回しだい? 今更になってそんな事を聞き出すなんて、何を企んでいるのやら」
「別に。ただねぇ、昨日のあの気味の悪い連中、此処には寄り付かない――寄り付けないみたいだったけど、何か理由でもあるのかなって」
「嗚呼、奴らか」
如何やら尼僧もあの異形の者達を知っているらしい。忌々しいとでも云うかのように眉間に軽い皺が寄る。
「此処は他の何者からの支配も受けない場所じゃ。この福原で、こんな土地は他にないだろうよ」
断言された言葉は二人の想定よりも遥かに強いものだった。竜司と奏一郎が互いに目を見合わせる。若い二人の反応に尼僧が軽く笑った。
「少なくとも儂の目の黒い内は、此処を奴らの好きにさせる心算は無いぞ」
「それは如何して?」
「此処で眠る御仁の邪魔は、させたくないからのぅ」
そう語る目は何処か遠くを見詰めるかのような寂寥感を帯びていた。齢を重ねた彼女の過去に何があったのかを推し量るのは難しいが、それが彼女の本心である事だけは分かった。
一人きり、投げ込み寺と呼ばれる場所で暮らし続ける尼僧は、まるで今思いついたとでも云うように二人に向けて言葉を続けた。
「ねじ曲がった者を戻したいと思うのなら、その時は此処に来ると良い。一人、それも一度くらいなら助ける事も出来るじゃろうて」
何を指して、とは云わなかった。そもそも彼女に対して自分達と静流を取り巻く事情は一切口にしていない。それでも何か察するものはあったのだろう。『ねじ曲がった者』と尼僧は云った。心当たりが無いとは云わない。また、今後が如何なるとも分からないのが自分達の抱える現状だ。
奏一郎が小さく頭を下げる。それを視界の端に入れた尼僧が、手にした湯呑を軽く揺らした。
「茶が冷めてしまったのぅ。淹れ直してくるわ」
告げて、尼僧は立ち上がり縁側から台所へと向かった。縁側に男二人だけが残された。
「ねぇ、不動の旦那。この辺りの警備は任せたよ」
「あの胸糞悪い連中もうろついているみてぇだからな。若いのに見張らせとく」
不要なものであるかもしれないが用心するに越した事はない。万が一、多勢に無勢の武力行使となってしまっては彼女一人では如何しようもないのだから。既に珠屋には数名忍ばせているのだから、此方に追加で人を割くのも難しい事ではなかった。
「まさか、あんな話を聞かされるとはなぁ。いや、驚いたぜ」
「そうだねぇ。でも僕としてはそもそも、あの静流が声を出して君を求めたという事についても、これでも随分と驚愕したんだよ」
「そうかい。だが、手前は俺を此処に連れてきた」
「静流の声が聞こえたと云うのであれば、此処を知っておいた方が良いと思ったからね。想像してたよりも凄い事聞いちゃった気もするけど」
小さく肩を竦めて、改めて竜司の眼を見詰める。逸らす事なく、逆に睨め付けるような強い視線を竜司は返した。
「先輩としての忠告というものあるけれど。お婆ちゃんの話を聞いて、君を此処に連れてきて良かったと思っているよ。静流が『また会えますか』と云った君ならば、彼女も……」
妹分が誰かと話したと聞いたのは初めての事だった。ましてや、客に対して再訪を望むとは。一体どんな相手だろうと興味が湧いた。こうまで気骨の塊のような男だと思わずに面食らった節は無きにしも非ずだが。彼女が選んだ相手ならば。それがこの男であるのなら。――それでも、寂しさのような感傷が皆無とは云えないけれど。
其処まで黙って聞いていた竜司が、不意に低く云う。
「俺は、誰の指図も受けねぇ」
竜司にとって、それは相手が誰であっても変わらない事だった。相手を見て態度を変えない事は、一種の信念と呼んでも過言ではないものだった。
だが、と。竜司は続けた。
「俺は期待には応えられる男だ」
「へぇ……そうかい。それは何よりだ」
ふっと奏一郎が口端に笑みを浮かべる。柔らかいが、同時にこの数日ですっかり見慣れてしまった不敵な色が覗くものだった。
「あの子も中々難しい立場に居るからねぇ。君くらい破天荒な方が合っているかもしれないな」
「……あの女と俺が似合いかなんて知ったこっちゃねぇが、あの女の身内である手前が『良い』って云う相手の方が良いんじゃねぇか、と。それだけは考えた」
婚姻を反対されるよりも祝福された方が幸せなのは道理だ。竜司と出会う前は、静流にとって奏一郎が唯一心を開ける相手だったと云う。そんな相手ならば猶更だ。
「でも、僕が君に『任せる』と云うか如何かは決闘の結果次第じゃないかなぁ」
「云ってろ。手前は必ず俺に『お願いします』と云う事になる」
「大きく出たねぇ」
そうして上がった男二人の笑い声は、戻ってきた尼僧が其々の口に突っ込んだ饅頭によって塞がれて止まったのだった。
*****
竜司と奏一郎が投げ込み寺に向かったのと同時刻。義武と清は神戸の街中を歩いていた。
「……あのぉ、岩田さん?」
「嗚呼、悪い」
別段意識をして見ていた訳でもないが、隣の顔に何処か既視感を覚えてしまい内心で首を捻っていたのは事実だ。決して穏やかではない目付き相手に観察されて良い気分にはならないだろう。詫びを入れつつ眼鏡を直す。
「いや、ええんですけど。案内してもろてるの僕ですし」
「案内と云っても、特別役に立てるとは思えんがな」
「いや、めっちゃ心強いですよ。まぁ確かに、ちょっと意外だとは思いましたけど」
二人の調査項目の筆頭は柿本財閥だった。交易の街でもある神戸であれば、帝都と親交のある商店も少なくはない。ただ、その案内役を買って出たのが軍人である義武だというのは少々違和感を覚えたらしい。尤もな事だろうと義武は肩を竦めた。
「両親は商いで生計を立てていてな」
「あ、そうなんです? 岩田さん、てっきり軍人さんの家系やと思ってました」
「父方の家系はそうだな。但し、両親は今、母の生家のある名古屋で商売をしている」
義武自身は商売よりも剣を揮う方に適正が有った為、両親と離れてこの土地で軍に籍を置いていると云う。
そんな会話を交わしながら、義武が案内した先は福原で老舗と呼ばれる呉服屋だ。大丈夫なのかと目線で問えば、清は少し得意げに笑ってみせた。
「こういうお店なら僕のコネも使えると思いますんで」
その自信は決して過信したものではなかった。義武が何か助け船を出すまでも無く、清は店番に話を通し、この店の店主の懐まで難なく入ってしまった。
「大阪、船場の堀川さん……はいはい、存じ上げております。あそこの跡取り様ですか」
やや顔色が悪いながらも仮面のような笑みを浮かべる店主の目が僅かだが驚いたような色を浮かべる。跡取りかは知らんけど、という清の言葉は耳に入っていないようだ。
「彼方の大学に通いながら、此方の土地まで……何とも勉強熱心な、いやはや素晴らしい心掛けでいらっしゃる」
「いやぁ、それ程でもないですけど。でもこの辺りの賑わい凄いですね。その中心はやっぱあの珠屋さんになるんですか?」
「そうですねぇ。珠屋さんには色々卸してますから。付き合いも長いんですわ。お陰様で、良くして頂いております」
良いお客様です、と店主は大層にこやかに笑う。遊女の着物や装飾品は須く高額な品だ。懐はそれなりに潤っているであろう事は店主の身形からも察する事が出来た。
最初はそうした世間話から始まり、一見して話が和やかに盛り上がった処で清が本題に切り込んだ。
「御商売って云えばやけど、柿本財閥って聞いた事あります? 最近帝都の方で勢いのある会社らしいですけど」
「……柿本さん、なぁ」
その単語に、一瞬店主の動作が止まった。
「えっと、御存知なんですか?」
「ええ、ええ。お世話になってますよ。あの方々はこの土地に大層ご執心なようで、私達もとても良くして頂いております」
幾つか頷いて、暫く何かを考えるように、或いは品定めをするかのように、店主は二人をじっと見遣った。二人の背に嫌なものが伝う。
「お二人は……へェ、成程なるほど……。良いでしょう。我々と同じ、この土地の人間であるのですから、云わば同胞でありましょう」
その言葉には違和感を覚える。母親は違えど父方は昔から神戸の人間である義武は兎も角、清は大阪の生まれの筈だ。しかしその疑問を挟む間もなく、店主は口を開いた。
「柿本さんは我らが姫の力を求めておられるのでしょう。あの御方が伴侶を得て目出度く女王と為れば、我らは皆懐かしき場所への帰還が叶うのです」
酷く抽象的で、要領を得ない言葉ばかりだ。浮世離れした単語の羅列に明確な意味を見出す事は難しい。青白い顔のまま恍惚と語る姿は不気味そのもので、しかし二人が止める隙を与えない。
「それこそが我らの本懐。海より生まれ出ずる我らが還れば、偉大なる御神体も長年の眠りから醒める事でしょう。嗚呼、何と素晴らしい」
脳が警鐘を鳴らす。〝それ〟は知ってはならない事だと。しかし、本能とも呼ぶべき別の意識はまるで待ち望んでいたかのように〝それ〟を受け入れる。点と点が繋がり線となるように意味が結ばれる。
〝姫〟が人魚姫――静流を指すのであれば。そして、もしも彼女が女王となって望むのであれば。この神戸福原に生まれ育った人間は全て〝海から来たるもの〟の血を引く者であると店主は云った。あの異形の者達と同じだと。〝海から来たるもの〟が女王に逆らう術は無い。女王の導きのまま海へと還れば、其処に眠る神と呼ばれる存在が目を醒ます。――そうなれば。それは最早、此の世の終焉だ。
これまでの常識が覆されていく。狂うには十分な恐怖だ。しかし、義武は寸での処で何とか己の正気を保った。眼鏡の上から目を覆うように抑え、荒い息を吐く。少しだけ冷静を取り戻した彼の中で、一つ腑に落ちた事があった。あの時に感じた相反する感情の正体。あれは、つまり。
「岩田さん?」
呑気にも聞こえる声が向けられる。清が不思議そうな顔をしていた。如何やら彼は、義武が気付いてしまった真実にまだ踏み込んでいないらしい。しかし、其処まで状況を把握出来るだけの余裕が義武には無かった。
「今の話の内容、彼奴には――彼奴等には絶対に云うな」
険しい顔のまま低く凄む。真っ先にしなければならないと思った事は口止めだ。辛うじて自分は踏み止まる事が出来たけれど、他の人間がそうであるとは限らない。もしも奏一郎や竜司がこの事実を知って、正気を失ってしまったら――そんな事はあってはならない。
特に彼奴には、と言葉を重ねる。その気迫は竜司のそれと勝るとも劣らない凄みを孕んでいた。確かに岩田 義武という人間があの不動 竜司と付き合いの長い相手であり、また過酷な戦場を知る軍人である事が知れるものだった。清が気圧されるには十分だ。多少この数日で竜司と接して慣れつつあるとはいえど、それまで向けられる相手とは異なる凄みに、彼は思わず息を呑んだ。
「い、岩田さんがそう云いはるんでしたら……」
唐突に脅されて、怯えつつも何処か釈然としないといった様子だ。事の重大さをまだ理解しきれていないのであればそれも致し方の無い事であるが。僅かながら罪悪感が義武の胸に生じるが、けれど此処で引く気は無かった。
二人の遣り取りを見た店主がニタりと口の端を上げる。
「おや、お若い方には難しい話でありましたかね」
「黙れ」
分からないのであればそれで良い。彼自身の身の為にも、其処に留まってそれ以上踏み込んでくれるな。そう義武が忠告をしようとした矢先、清の顔色が変わる。
「え……あれ、は。いや、まさか……そん、な」
遅かったか、と義武は内心で舌打ちを漏らす。彼を押し留めきれなかった己の配慮の甘さに苛立つも最早後の祭りだ。店主が一層笑みを深くする。細めた眼と裂けんばかりの唇は、まるで爬虫類を思わせる容貌だった。
「……おい」
「大丈夫……やと、思います。……多分、まだ。はい」
云い聞かせるように呟いているが、眼鏡の奥の瞳は何処か虚ろだ。当人の言葉を信じ切るには些か怪しい。
これ以上この場には居られないと二人は店を後にする。しかし。青白く震える清の顔に、拭いきれない不安を義武は抱かずにはいられなかった。
*****
投げ込み寺の情報を包み隠さず伝えた竜司達とは対照的に、義武達は街では得られた有益な情報は無いと答えた。それが事実でない事は聞いていた二人には察しが付いた。しかし、それ以上彼らは何も語らなかった。
沈黙を貫いた姿勢に、元より気が長い質ではない竜司の堪忍袋の緒が切れるのに左程時間は掛らなかった。
「一寸顔を貸せ」
投げ込み寺に近い河原に二人を呼び出した竜司は果てしなく不機嫌である事を隠そうともしていない。流石に清が顔色を変えるが、義武は常の態度のまま竜司と向き合った。
「手前と堀川が街で色々調べて来たって聞いたが、その件で俺に話をする事はないか?」
「無いな」
即答だった。奏一郎が面白そうに目を細めるも、竜司の眉間の皺は深くなるばかりだ。
「如何してだ」
「云って良い事と悪い事がある。此方が調べた情報は、お前達が決して知ってはならないものだ」
一切の迷い無く義武は云った。思惑は如何であれ、それは余りに鋭い拒絶を表す言葉だった。
今、竜司の顔にあるのは紛れも無い怒気だ。只の怒りであれば男にとって特別珍しいものではない。しかしその怒りの裏には、長年信頼を置いていた相手に裏切られたという感傷が滲むものだった。
義武、と。竜司は幼馴染である筈の男の名を呼ぶ。
「手前はあれこれ煩い事を云う事もあるが、お前だけは俺を裏切らないと――お前だけは味方だと、そう思っちまっていた」
しかし、そうではなかったと。だからこそ、裏切られた事が刺さり、それが腹立たしくてならなかった。
竜司の胸の内を義武は分かっていた。彼にとっても相手は付き合いの長い幼馴染だ。僅かに眉を寄せるも、それでも矢張り彼はそれ以上何かを口にする素振りを示さなかった。
舌打ちと共に竜司は拳をキツく握る。それまで青ざめて動けなかった清がハッと我に返ったように声を上げた。
「待ってください!」
制止しようとした義武を振り切って間に入った清に、竜司が容赦無い怒声を浴びせる。
「煩ぇ! 手前には関係無い事だろうが!」
「確かに関係無いですけど!」
負けじと声を張り上げる。
「僕は貴方が良い人とは云えない人なんは分かってますけど! でも悪い人やけど悪い人でないんも分かります! 岩田さんの事を信じたいんやってそうでしょう!? ならそれを信じてやってください!」
清は振り上げた竜司の腕に掴み掛かるも、力任せに振り払われる。咄嗟に義武が庇い、二人は揃って体勢を崩した。しかし、それだけでは竜司の憤懣が晴れる事は無かった。
「知った風な口を利くじゃねぇか。手前に俺と此奴の何が分かるって云うんだ?」
「知らんけど、会ったばっかの赤の他人やけど! ……それでも、僕が岩田さんの立場だったら云われへんし嫌なんや」
体勢が崩れたままの清の胸倉を掴む。頑なに首を横に振る彼の脚が宙に浮いた。
「もう一度同じ台詞を云ってみろ。今なら聞かなかった事にしてやる」
「ならもう一回云いますよ! 僕は赤の他人やけど、僕が岩田さんの立場だったら、貴方にだけは絶対に云われへん」
恐怖に耐えているのは事実だ。それでも清は必死になって云えないと訴える。彼もまた、破滅に至りかねない真実の断片を知っているからだ。清自身が正気を保てているのか否か危うい状況にあっても、それが今の彼の本心だった。
しかし、云えない以上竜司達には伝わらない。伝えられないという事実が彼の怒りに火を注いだ。遂に竜司が清に向けて拳を振り上げる。しかし、中る直前で、それはもう一つの拳によって相殺された。
「堅気さん相手にお前が手を出すな」
「……そうしようとしたら、お前がこうして止めるだろうが」
義武がただ黙って見ている訳が無いと。弱い者を虐げる行為に向けらるであろう剣幕等、分かり切っていた事だった。握った拳を解かざるを得なかった。僅かに痺れる手を竜司は軽く振る。そのまま懐から煙草を取り出して悪態を吐いた。
「手前等二人とも、ぶん殴っても叩いても、何をしても云わねえって面をしてやがる。……如何思う若旦那。この連中の口を割らせる事は出来るか?」
それまで場の成り行きを只黙って見守っていた奏一郎が、竜司に話を向けられて朗らかに答える。
「そういう事は出来なくもないよ。でも、君の方がそういう伝手は持っているんじゃないのかい?」
馴染んだ微笑を浮かべたままに小首を傾げる。逆に向けられた問い掛けに竜司は返事をしなかった。苛立ちに満ちた視線を柳に風と云わんばかりの仕草で躱して言葉を続けた。
「それこそ、廃人にしてしまってもいいのなら、ね? でも君はそれを望まない。此処に他の舎弟を呼んでいない事が何よりの証拠じゃないか」
竜司は何も云い返さない。全てが奏一郎の指摘の通りであったが故に云い返す事が出来なかった。事実、舎弟達に命じて拷問紛いの目に遭わせれば義武は兎も角清は口を割っただろうと竜司も一度は考えたのだ。強硬手段を選ばなかったのは竜司の意思だ。
「だから君は、ただ拗ねているだけの子供さ。そうして拳を交わし合って漸く発散出来ただけのね」
図星を指し尽くした男はからかと笑う。耐え兼ねたように怒号を上げるも、それが最早只の八つ当たりである事は明白だった。
「煩ぇ三味線野郎!」
「誉め言葉だよ。ねぇ、三子」
愛用の三味線を一つ鳴らす。「怒る相手が違うだろう」と矛先を戻す旨の発言が義武から掛かるが、竜司は憤然と云った様子で三人を睨んだ。
「手前等が俺を怒らせる事ばかり云ってるからだろうが!」
「えぇ……って云うか、僕も君と同じ側なんだけど」
理不尽だと奏一郎は不服そうに唇を尖らせる。そんな彼の前に、睨む竜司の正面に義武は立ち、真っ直ぐに目を見てこう告げた。
「お前を裏切らないで居られたから、お前には何も云えない。俺は、お前と彼女が幸せになってくれれば良いと思っている。だから、云わない。殴られようとそれは変わらない」
義武にしても、やろうと思えばもっと器用に立ち回る事は出来た。誠実であろうとするからこそ拗れてしまうと分かっていても、嘘や偽りは云いたくなかった。それこそが竜司が何より嫌うものだと知っているから。
断言された言葉は生真面目な男の本心からの配慮だと分からない竜司ではない。そもそも最初から義武と清が自分を貶める心算は無い事は最初から分かっていたのだ。それでも胸に燻るものはある。ただそれに触れて事を荒げるのはそれこそ『ただ拗ねているだけの子供』と変わりない。
何かを云いたげな顔をするも、それを隠すように背を向ける。先程までの怒気が多少は収まったようだ。少なくとも殴り掛かってくるような気配は無い。
男の怒りの溜飲が下がったのを確認した義武は、改めて奏一郎の方へと向き直る。
「巻き込んで悪いな」
「悪いと思っているついでに情報を渡してくれれば此方としては万々歳なのだけれど。でも多分、君の云えない相手というのは僕も含まれているんだろう?」
「そうだな。余計な敵は増やしたくない。可能な限り穏便に済ませられるのなら、それに越した事は無いからな」
「軍人さんがよく云うねぇ」
ふっと肩を竦めて、色の読めない笑みを浮かべる。
「まぁ、別に良いんじゃない? 僕は僕のやりたい様にやるだけで、君も君のやりたい様にやれば良い。その結果袂を分かつ事になったとしても、そういう運命なのだろう」
「其方の望みは、彼女と一緒にこの街を出る事だったか」
「そうだけど?」
「……それは、一体何故だ」
如何してその言葉が口を吐いて出たのかは義武自身にも分からなかった。今更過ぎる疑問に奏一郎が一瞬怪訝げな顔になるも、すぐに呆れ交じりの笑みを浮かべた。最初から云っていた心算だけど、と口を開く。
「僕はそもそもこんな商売嫌いだしね。静流だってあんな男の元に居させる訳にはいかないだろう? 最初はねぇ。君達――厳密に云えば不動君に会う迄は静流の声を聞く事が出来るのは僕だけだと思っていたから、さ。此処から静流が逃げるには僕が一緒でないと」
「聞こえるのは静流さんの声、それだけか?」
「……何が云いたいのかな?」
「御後田さん自身が、この場所から離れたいと思う理由があると、そう踏んでいる。違うか?」
静流を案じているのは真実で、本心からのものという事は疑っていない。己の生業を疎んじているというのも偽りではないのだろう。しかし、妹分の存在を理由としない、奏一郎自身が神戸福原の花街から逃れたいのだという意思を義武は感じ取っていた。
清が不安げに二人の会話を窺っている。先程の竜司と義武の時とは異なり、云い争いをしている訳ではないので割って入る事も出来ないようだ。竜司もまた黙っていた。
時間にすれば僅か、沈黙が流れる。根比べの末に、崩れたのは張り付いたような笑みの方だった。
「聞こえるんだよ。ずっと。此処に居ると。遠ざかれば声は小さくなるけど。『かわいいしずる、みんなをつれて、こっちへおいで』って、ね」
堪ったものではない、と。そう吐き捨てる奏一郎の声は酷く沈んでいた。
「だから、僕は。僕と静流は此処から離れないといけないんだ」
福原の真実を知ってしまった義武と清には、奏一郎の云う声の主に見当が付いてしまった。〝海から来たるもの〟――或いはそれ等が崇める神と呼ばれるモノだろうと。孰れにせよ説明等出来たものではない。同時に、奏一郎は未だ〝其方側〟に居ないと云う事でもある。喩え瀬戸際であろうと、それならばまだ十分手立てはある。福原の土地から離れる事を諦めていないのなら。これまでの彼の言動から、その思惑に想像は付いている。
頷いて、義武は竜司を指差しながら奏一郎に問うた。
「其処に、共に往く相手として此奴を選んだ、と云う事で良いんだな?」
「僕の目的は、自分と静流がこの街から逃げ出す事だけど。不動君は面白いからねぇ。自分と静流と不動君が、と書き加えても良いんじゃないかな」
「……それならば矢張り、猶の事云えないな」
僅かに義武は顔を緩める。しかし。詳細は伝えられないとも思う。云えば奏一郎は奈落の底へ落ちる外無いのだから。それは嫌だった。奇妙な縁で知り合ってまだ数日しか経っていないが、不用意に傷付いて欲しいとは思えない程に情は沸いた相手であるのは確かだ。
「其方の事も、何とか出来る。だから、今は何も触れないでくれ」
義武の声に、懇願に近い色が滲む。何一つ手札を晒さずに相手に要求を呑むように云っているのだ。虫が良い話だという自覚はあった。
一通りを聞いた奏一郎はすっと目を細め、挑発的な口調を義武に向けた。
「つまり、こう云う事? 岩田君は僕の運命を握っていて、それをより良いものにしようと、『俺を信じろ』って云いたいの?」
「其処まで大それた事が云える程、自分が出来た人間だとは思っていない」
それは義武にとっての掛け値無い本心であり、弱音でもあった。ただ、と。言葉を選びながらではあるが、その意思の本質は先程竜司に向けたものと同じ、何処までも真摯なものだった。
「後悔をしたくも、させたくも無い。不要な争いも極力起こしたくは無い。……軍人が云った処で、信頼は出来ないかもしれないが」
それこそ先程奏一郎が触れたように。必要であれば己の手が汚れるのも厭わない仕事をしている事は否定しない。それでも、余りにも不器用だ。しかしその不器用な生真面目さを奏一郎は信じ、それまでとは違う柔らかな笑みを浮かべた。
「いいよ。僕の運命、君に預けるよ」
「恩に着る」
何処までも生真面目な男だ。隠し事をしているのは事実にしても、疑うのは余りにも馬鹿らしい。奏一郎も伊達に花街で生きていない。人を見る目にはそれなりに自信があった。その感覚が義武の提案を受け入れる事を許容した。
「出会って数日しか経っていないけれど、君と僕は何処か似ているしね」
「恐れ多い事で」
「嗚呼、でも、僕の方が数倍顔は良い。綺麗だ」
「そうだろうな」
「あと、僕には三子がいる。君に三子はいない」
「……それは依存か?」
海からの呼び声が恐ろしいのなら、他の音色に救いを求めるというのは筋が通っている。義武の言葉を奏一郎は否定しなかった。
「元々母様から手習いを受けたものだし、静流も好きだからね。演奏する事そのものは好きでやっているんだよ」
「演奏自体は悪いとは云っていないが」
ただ常に肌身離さず持ち歩き、隙あらば掻き鳴らすのは些か不審なきらいがあるだけだ。敢えて突いて臍を曲げられるのも困るので其処で義武は口を噤んだ。
そのやり取りを竜司は背を向けたまま、何も云わずに只聞いていたのだった。
*****
宵の中で薄灯りの灯る二階の部屋を竜司は見据える。其処は珠屋の端、静流に与えられた部屋だった。単に恋い慕う相手の姿を見たいから、と云う訳ではない。攫う為の下見も兼ねている、謂わば偵察だ。彼女を攫う計画を立てた時から既に珠屋の中に舎弟を数人入れている。不審な点があればそれ等は全て竜司の耳に入るように手を尽くした。それらの情報を踏まえ、実際に己の目で静流の部屋を目視しながら逃走経路を考えていたのだ。
尤も。意識を其方に向けていれば余計な事を考えないで済むと云う節が今の竜司にはあるのだが。幼馴染と舎弟の反応が未だに気にならないと云えば嘘になる。二人が信じるに値する事は分かっている。それでも晴れないものは晴れない。
燻っていた思考は、胸元に感じた違和感に霧散した。己の外套の内側の不自然な膨らみから小動物の可愛らしい鳴き声が漏れる。
「大人しくしれられねぇのか。さっきしこたま飲ませただろうが」
ひょっこりと顔を出したのは小さな黒猫だ。竜司の苦言等お構いなしに鳴き続ける。武骨な手で頭を撫でてやると幾らか大人しくなった。此処に来る道中で何故だか懐かれた。野良猫だろう、毛並みは余り良くはない。『黒猫は不吉』だという迷信を男は信じていなかった。
「ったく。手前がそんなに煩いと、あの女が気付いちまうかもしれねぇだろうが」
悪態を吐くも、心の何処かでそれを期待をしている節はあった。あの日以来顔を見ていない彼女が、何かの間違いで部屋の窓から顔を出さないだろうかと。竜司の淡い想いなど黒猫にとっては知る由も無い事だ。しかし、静かになったと思った黒猫は不意に高い声を上げて鳴いた。男が険しい顔で制止しようともお構いなしだ。
かたん、と乾いた音が響く。戸を開く音の方に目を遣れば、其処には待ち望んだ顔があった。彼女は何も云わず、ただ驚いたように目を丸くして竜司と黒猫の方を見ていた。落ちた沈黙に耐え兼ねたように竜司が口を開く。
「……悪いな。俺の連れが手前の顔が見たいって云ってよ」
気不味げな顔と、抱えた小さな黒猫が酷く不釣り合いだった。ゴロゴロと逞しい男の胸に擦り寄る愛くるしい黒猫の様子を静流は微笑まし気に見詰める。花が綻ぶかの如く、柔らかな表情だった。
一瞬、その微笑に確かに竜司は目を奪われた。穏やかな表情を目の当たりにし、胸に宿るものがあった。声を出さない彼女の方を真っ直ぐに見上げ、告げる。
「手前があの朝に云った言葉を、俺は信じてやる」
あの時に彼女から聞いた唯一の言葉。『また、会えますか』という望み。狂おしい程に彼女と、そして自分自身を信じている。必ず彼女と、彼自身の願望を叶えられると。今はまだ、手を伸ばしても届かない距離に静流は居る。それももう、あと少しだ。
静流はそれに言葉は返さず、ただほんのりとした笑みを男へと返した。その様を見て、不敵そのものといった仕草で口の端を釣り上げる。
「今日は冷える。手前ももう窓を閉めて休んでろ。俺が攫いに往くときに風邪でも引かれたら敵わねぇからな」
それだけ云って背を向ける。少し遅れて戸を閉めたのであろう木の擦れる小さな音が竜司の耳に届いた。其処から離れるように歩みを勧めれば、胸元の黒猫が身動ぎを始める。仕方なく肩に乗せると上機嫌に一度鳴く。そして『役目は終わった』と云わんばかりに地面へと降り立ち、良い闇の中へと姿を消したのだった。
*****
「やぁ、不動の旦那。偵察の首尾は如何だった?」
以前と同じ珠屋の一室。外から帰ってきた竜司を既に揃っていた三人は迎え入れた。
「悪くねぇな。大体の経路は頭に叩き込んだ」
「それは何より」
「ま、万が一追手が来たとしても、その時はその時だ。得物の準備はもう出来てンだろう?」
「無論だ。抜かりない」
「ほんま、滅茶苦茶頼もしいですわ」
怠る事なく手入れされた日本刀は義武の愛刀だ。正に鬼に金棒と云うべき心強さである。無論、使わずに済めばそれに越した事は無いのだが、あの異形達と遭遇しないという可能性は薄いと見ている。もう後に引く事を考えてはいなかった。
「明日は折良く店の人間が手薄でね。静流の御贔屓さんも早い時間に帰るらしい。連れ出すなら絶好の機会だよ」
「お膳立ては万全って訳か」
「でも明日って、確かあの赤坂さんって人が決闘状突き付けてきた日と違います?」
白昼の前面で繰り広げられた男の言動を思い出し、清が恐る恐ると云った様子で三人を窺う。新月は明日の夜だ。
「……あの人の相手、やっぱりせなアカンのですよね?」
「赤坂の旦那はねぇ……此処で蹴りを付けておかないと、何処までも追いかけてくると思うよ」
「厄はこの地で払っておけという事か」
「面倒事が一遍に片付くんなら構わねぇさ」
何ともな云われ様だが、避けては通れない道だと腹を括るしかない。
打ち合わせを進めている四人であったが、ふと戸の外に人の動く気配を感じた。僅かに空いた襖の隙間から見えたのは珠屋の楼主と静流だった。冴えた相貌は前情報の通り奏一郎と似た処は無く、彼に引きずられる静流は酷く怯えた顔をしている。間違っても穏やかとは云い難い雰囲気を漂わせながら、楼主は四人が居る部屋を通り過ぎ、その隣室へと静流を連れ込んだ。
見る間に竜司の表情が変わる。ぐっと眉間に皺が寄り、怒りで体の体積が数倍膨れ上がったかのような錯覚すら感じる、それ程の怒気だった。しかし、怒りのままに動いてしまえば、その後如何なる事か。
真っ先に動いたのは義武だ。竜司が立ち上がる直前で彼の腕を取り、そのまま体重を掛けて畳の上へと押え込んだ。
「ッ、糞が。離せ! 手前から殴られてぇのか」
怒りに任せて畳を殴る音すら響かせまいと、体格の良い幼馴染を押さえつける手に力を籠める。
「今此処で騒げば、実際に連れ出す際に支障が出るだろう」
冷静に告げるも、隣室の状況が許し難いものであるのは義武も同じだった。浮いた眉間の皺は竜司を押えているせいばかりではない。
「隣に声が響くと不味いな。猿轡でも噛ませないと」
「あ、これとかどないでしょう?」
「いいね。堀川君任せた」
手拭いを噛ませて声を塞ぐ。抑え込まれている相手に対してとは云え、清は意外な程の手際の良さを見せた。くぐもった呻き声しか上げる事が出来ない状態にされた竜司に出来る事は無い。それすら我慢ならないと、三人と、隣の部屋を睨め付ける。
まるで静かになったのを見計らったかのように、隣室から鈍い破裂音がする。何かを――人を殴る際に立つ音だと理解出来てしまった。
「あの不動とかいう男と良い仲になっているようだが、その想いが叶うと思うなよ。お前は俺の大事な商売道具だ」
どさり、と。物が落ちる音。微かな衣擦れが其処に重なった。
「お前を売り付ける先はもう決まっている。それまで精々稼げ。次の客が直ぐに来る」
冷徹という言葉では足りない程の声が静流へと向けられる。
「お前が幸せになれると思うなよ」
立ち去る音。弱々しい啜り泣きが堪え切れなかったかのように漏れる。それに併せて義武と清の耳に奇妙なものが聞こえた。明らかに人の声とは異なる音。水の生き物の鳴き声を思わせるものだ。怪訝な顔をした二人に向けて奏一郎が唇に人差し指を押し当てて目配せをする。彼と竜司には静流の〝声〟が聞こえているのだ。
――誰か、誰か此処から連れ出して。
「……だってよ。不動の旦那」
竜司が睨む。その視線だけで人を殺せそうな凄みを帯びていた。しかしそれは自分を押さえつけていた彼等ではなく、楼主と、自分自身に対して向けられた怒りだった。
それ以上暴れないと見て義武が拘束を緩める。清もそれに倣って猿轡を外した。口を解放された男が低く唸る。
「此処で俺達が出来る事は、今は無ぇ。でも、あの女は云ったんだ。『此処から出してくれ』って、そう云ったんだよ」
「……それで、お前がよく耐えた。それだけ本気という事か」
義武が納得と感心を滲ませた声を掛ける。竜司の気持ちを疑っていた訳ではないが、嘗ての幼馴染であれば三人の制止を振り払ってでも楼主を殴りに向かっていた事だろう。付き合いの長い相手に成長したものだと言外に指摘され、ついと顔を背けた。
「何時でも、ぶん殴りたい時には殴ってきた。だが……そうしない事も、もしかしたら一つの強さなのかもしれねぇな」
義武と清を一瞥する。脅しにも決して屈しない彼らは、まるで何かに耐えているようにも思えた。今更隠し事を蒸し返して場を険悪にする心算は竜司もなかった。視線を奏一郎の方へと向ける。
「手前はコレを俺達に知らせたかったんだな」
「まぁね。君はこれを知らなければいけなかった。まぁ、でもよく我慢したねぇ」
柔らかな手つきで竜司の髪を撫でる。当然の如く抵抗するも、奏一郎の思惑――一種の配慮に対しては決して文句を云わなかった。
「止めろ、崩れるだろうが! 俺は今のこの髪型を気に入ってんだ」
「あ、思ったより柔らかい」
「だろう」
「分かりますわ。僕も髪柔いんで、整えるの大変なんよ」
「だから触るんじゃねぇよ!」
一喝にも三人が堪えた様子は欠片も無い。義武は兎も角、出会って数日の清と奏一郎ですらこの有様だ。思わず、と云ったように、呆れにも似た微苦笑を竜司は漏らした。
「全く。義武は昔からの付き合いだ。俺の性格も分かってるだろう。だが、御後田と堀川。手前等は本当に物好きな奴らだ」
「毒を食らわば皿まで、って云うたでしょう。此処まで来てしまったからにはしゃーないですわ」
出会い、巻き込まれた一番最初に云った台詞と同じものを清は繰り返す。声に滲む諦めは、清自身に対してのものも含まれている。それでも全てを許容する辺り、矢張り彼は大物の素質がある。尤も、それを素直に口にする程竜司は人が良くないが。
「何だ堀川。立派な名前の大学に通ってる割に馬鹿だな」
「そんな阿呆でもなきゃ、わざわざこんな処ふらふらなんてしとりませんよ」
「違いねぇ」
肩の力が抜けたように笑う。似た表情を浮かべる二人は髪質以外にも共通項を持ち合わせているようだった。その様子に完全に怒気が抜けた事を確認して、義武は完全に押さえを解いた。そうして中断せざるを得なかった話の軌道修正を試みる。
「話を戻すが。無事に此処から出たとして、その後は如何する心算だ?」
目標は彼女と共にこの神戸福原の土地から離れる事だが、それだけで全てが済む話ではない。寧ろ逃げてからが本番だと云っても良い。それまで生きてきた場所や地位を捨てて、如何にして生きて往くのか。竜司としても、その点は予め考えている事はあった。軽く腕を組んで云う。
「神戸にはもう居られねぇからな。帝都くらいまで離れた方が良いだろう。事業を始めるにしても、人の多い処の方が都合が良い」
「あの、僕の大学! 卒業!」
声を上げる清の頭を竜司が「煩ぇ」と叩く。とはいえ、全く眼中にないわけではないようだ。
「まぁ此奴の事もあるし、帝都までは遠い。一度大阪で諸々整えていくのは有りだとは思ってる。情報も手に入るしな」
淀みなく語る声には揺らぎない自信があった。『不動』という家と後ろ盾を失った処で竜司にとっては痛くもない事だった。事実、一人でやっていけるだけの力を彼は持っている。静流を抱える事になっても、その軸は決してブレる事はない。寧ろより一層強固たるものになるだろう。
竜司の話に頷いてから、今度は奏一郎が口を開いた。
「僕は不動の旦那に付いて往くよ。それなりに器用な方ではあるから、働こうと思えばいくらでも手はあるし。君は如何するんだい?」
「俺は……何とでもなる」
「ふぅん」
奏一郎は微かに笑い、清が意外そうに目を丸くする。彼は義武も共に来るものだと疑っていなかったようだ。
思えば義武にこの地を離れる理由は無い。其の上軍人という立場では容易に離れる事の方が難しい。それでも。義武はこの場で「残る」と断言をしなかった。
「手前は手前の立場があるだろ。好きにやればいい。ま、付いて来るって云うなら雇ってやるよ。俺は金払いが良いからな」
「その誘いも、もう何度聞いた事か」
「ハッ。分かってんだろうが。……裏切らねぇなら、それで良い」
「それは無いから安心しろ」
生真面目にそう返す。それ以上は何も、誰も探りを入れるような事はしなかった。今更義武が言葉を違えるなどと思う者は誰も居ない。義武だけではない。奏一郎も、清も。それは同じ筈だ。
竜司が全員の顔を眺め、宣言する。
「明日の夜だ。彼奴を――俺の女を此処から攫う。絶対にだ」