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静まり返った冬の早朝、各々の衣擦れの音のみが響く。凍てつく静けさの中で寄せ合っていた体温が離れた証であった。
此処は神戸。福原遊郭。
男と女が共に一夜を過ごし、朝を迎えた。ごくごくありふれたものだった。
女はこの廓でも指折りの遊女であった。乱れても崩れる事の無い美貌は福原随一との呼び名も高い。襟を合わせる着物の緋色と艶やかな黒髪は、女の真珠のような肌の白さを際立たせていた。男もまた身支度を整えている。鍛え上げられた肉体と野性的に整った顔。その身体と頬に刻まれた傷跡は、男が堅気の人間ではないという事を示していた。
コートを羽織りながら「そういえば」と男は口を開く。
「俺の顔の傷に初対面で触れてきたのは、お前が初めてだった」
女は少し不思議そうに目を丸くし、男の頬に触れる。細い指が傷跡をなぞった。言葉にしない問い掛けは、まるで子猫が纏わりついているかのようだ。男がくすぐったげに顔を顰める。厳つい顔に、不快の色は浮いていない。
「お前は一言もしゃべらねぇが。それでも、お前の云いたい事は何となくだが分かったぜ。今は『何が悪い?』って聞いてんだろ」
女がまた少し目を丸くする。どうして分かったの、と云わんばかりの表情だ。
男の手が、触れる女の手を掴む。女は其処にもう片方の手を添わせて、ふっと微笑んだ。これはあくまで一時限りの逢瀬。幸運が重なった結果のものだと男は知っていた。女の方もそれは理解している筈だ。
「時間だ。俺は一人の女と朝を迎えねぇようにしてたんだが」
外を見遣れば宵の空は薄っすらと白ばんでいる。一夜の夢が醒めるように、陽が昇ればこの逢瀬すら幻の如く消え去ってしまう。ある意味で、それは遊郭の仕来りとして正しい事だ。金で女を買う男、それ以上に情を交わす事は無粋だと。
再度、静寂が部屋を満たす。
男が羽織ったばかりの上衣の裾を掴む。途方に暮れる様子はまるで捨てられた子猫のそれだ。何かを云いたげに男を見詰め、押し黙る。そうしてどれ程躊躇っていただろう。やがて、紅い唇が微かに震えた。
「また、会えますか」
冴える空気をそっと、鈴が鳴るような響きが震わせた。水面に広がる波紋にも似た静けさの余韻が男の耳に届く。
直ぐに女は口元を抑える。今己が口走った事が信じられないと云わんばかりに俯き、しかしそんな仕草に、男はにやりと笑う。
「聞こえねぇな」
華奢な手首を掴み、己の方へと引き寄せる。もう一度と耳元で促せば、女は赤面して肩を震わせた。高嶺の花と評判の遊女とは思えぬほど初心な反応は、これが手管であれば見事としか云えないものだ。尤も。男にとって其処は大した問題ではない。女は自分に対して、確かに〝そう〟云ったのだ。
「次に来た時にも聞かせてくれよ」
獰猛に喉で笑う。本来であればあり得ない筈の〝次〟がある事を確信している声だった。

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