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Chapter 3『回廊』

エントランスホールから階段を上がる。二階全体を繋ぐ回廊には多くの美術品や絵画、それに写真が飾られていた。
写真は顔の部分が黒く塗り潰されているものばかりだ。けれど、それらは全て自分達を写したものだという事は分かる。幸福をそのままに切り取った笑顔がその下にある事も。何故なら撮った当時の記憶が蘇るような懐かしさが過るから――そんな事実が存在しないにも拘らず。
違和感を振り払うように、高標は真っ直ぐに歩みを進めていた。しかし不意に、一枚の写真の前で紅羽が足を止めた。じぃっと見詰めていたかと思うと、何かを思い出したかのように小さく笑う。
不審に思って呼び掛けると、紅羽は酷く無邪気な様子で首を傾げた。
「どうした。急に」
「ん? いやだって、懐かしいなって思ってさ」
左手で写真を指差す。その時高標は思わず己の目を疑った。
紅羽の手首にあった筈の腕時計が消えていた。その代わりに、手の甲側の手首には切り傷の名残のような痣が浮かんでいた。それも付いたばかりのものではない、古傷と呼んでもいいような痕だった。
「この写真、覚えてる? この傷が付いた時のやつだよね。まさかこんな風に痕になるなんて思わなかったや」
懐かしむように紅羽は笑う。覚えているかと問われても、高標はその答えを持っていなかった。嫌な予感が脳裏に過る。舌打ちをしたいのを辛うじて堪えた。
「……そんな事、あったか?」
「え、覚えてないの?」
あんなに印象深い出来事だったのに、と深紅の目を見張る。
「レッドブランチの森に迷い込んだこと、覚えてない? 深い森の中で、そこに住んでた狼と対峙したじゃない」
思い出の一幕を語る口調は、まるで当時の光景が見えているかのように淀みがない。本心から紅羽はその出来事を〝覚えて〟いるのだ。
「あの狼も成仏した、って言うのもちょっと変だけど。でも異界の傷って残るものなんだね」
手首の傷に目を落とし軽くそこを擦ってみせる。けれど紅羽の語る記憶は矢張り、高標には存在しないものだった。
記憶の齟齬に心当たりはあった。紅羽を『梅宮 紅羽』足らしめている欠片が異界の力によって忘却し、変異を起こしてしまったのだと。消えた腕時計と覚えのない傷跡がその証拠だ。
しかし、紅羽を責めようとは思わなかった。シフターの方が異界の影響を受け易い。それはもう、どうしようもない事だと理解している。
「……悪い。あんまよく覚えてねぇわ」
敢えて『そんな出来事は存在しない』と否定をせずに、それだけ言葉を返す。否定した所で記憶の食い違いは解消されず平行線を辿るだけだろうと考えたからだ。また紅羽の見続けていた夢の結末を思えば、変に仲違いの種を作るよりも曖昧にしておいた方がまだマシだろう、とも。
「大体、こんな所で突っ立ってする話でもねぇだろ。休める所でも探そうぜ」
「……まぁ、それもそうだね」
珍しくも歯切れの悪い反応を見せる高標に対して紅羽の方が違和感を覚える。しかし発言の内容自体は至極全うで合理的な彼らしいものであるため、一先ずは頷いてみせた。
名残惜し気に写真から視線を外そうとし、その直前で眼の端があるものを捉える。件の写真の端の白い部分に何かが透けて見えた。裏返してみると、そこには八桁の数字の羅列が記されていた。
「何この数字」
紅羽の指した先を高標も見る。並びからして何かの日付だろうと推測が付いた。しかし写真を撮ったと思しき日付とは合致しない。
何かとても意味のある、重要なもののような気がするが、それが思い出せない。〝分からない〟ではなく〝思い出せない〟と感じる不自然さが、二人の胸に靄のような違和感を齎す。それが記憶の差異による不信感を一層助長させているかのようだった。

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