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Chapter 1『エントランス』

高標はソファーの上で目を覚ます。しかし、そこは慣れ親しんだ自室ではなかった。何処かの建物、洋館の中だろうか――それにしては目立った調度品の無い、殺風景な場所だった。
不可解な点はそれだけではなかった。翌日会う約束を取り付けた人物が、すぐ隣でソファーに腰掛けながら高標の様子を不安げに伺っていたのだ。
細くしなやかな四肢に、全てのパーツが絶妙かつ完璧に整った小顔。薄い暗がりでも分かる肌の滑らかな白さ。品の良い赤茶色の柔らかな髪と、長い睫毛に縁取られた深紅の瞳。普段と変わらない美しさを湛えた紅羽は、高標が意識を取り戻したのを確認するかのように小首を傾げた。視線に少しばかり不安げな色が滲む。
「おはよう?」
「おはよう……? 何だ、ここは。俺達、どっかに拉致られたか?」
「似たようなものだよ」
拉致の心当たりなら高標には生憎と複数あった。ただ、そうであるならば身体は拘束されていないのは不自然だ。些か物騒な方向に偏った思考ではあるが、紅羽は状況そのものを否定しなかった。その声が思い詰めたような響きを帯びているものの、高標にその検討は付かず、怪訝げに声を零しながら只がらんどうの室内を見渡す。
少しして「あぁ、そっか」と額を抑えていた紅羽が声を漏らす。視界の認識のズレに漸く気付いたのだ。そっと紅羽が高標の肩に白い手を置いた。途端に、彼の見る景色が変わる。
そこは天井から豪奢なシャンデリアが吊るされたエントランスホールだった。中央の階段からは左右に続く回廊へと繋がっている。一見して年代物と分かる調度品が至る所に設置されており、足元の冷たい床は柔らかな絨毯へと変わっていた。実に立派な、そして物々しいという言葉では済ませられない気配を漂わせた洋館だった。
余りにもあからさまな視界の変化だが、高標は冷静に状況を理解した。
「あぁ、異界か」
「話が早くて助かるよ」
返す声は沈んだままだ。異界に巻き込まれる事には二人共慣れている。それはそれでどうかと思うけれど、しかし今の紅羽の様子は普段のものとは明らかに異なる。
「何で君まで居るのさ……」
途方に暮れたように頭を抱える姿というのは珍しい。小さく呟いた声の頼りなさも、単に異界に触れただけにしては過剰なものに思えた。歪めていてもなお美しい顔を見て思い至る。恐らく紅羽にとって、予兆があった事なのだろう、と。
「夢見が悪いって言ってたか。それがコレか?」
「……夢で済めば良かったんだけど。でも、こうなったら言い逃れも出来ないか」
最早仕方がない、と。紅羽にとっては正直黙っていたい事ですらあるのだが、揃って巻き込まれてしまったとなっては伝えない訳にはいかない。
己一人の力ではどうしようもない事で、また高標一人だけでも状況を打破する事は難しい。二人が共にあって漸く立ち向かう事が出来る、異界とはそういう場であると身に染みていた。
「君に言った通りだよ。最近ここに来る夢を、ずっと見続けてた」
そこで一度言葉を切る。何かを言い辛そうに押し黙るも、それをそのまま見守る程、高標は甘くはなかった。
「もったいぶるなよ。ほら、吐けって」
「っ……笑うなよ」
そう念を押して、紅羽は自身の抱えていた状況を晒した。
「ここに居る時のおれと君は……なんて言うのかな、将来を誓い合った仲ってやつで。でも、夢の終わりではいつも、おれが君を殺してた」
説明された話が冗談でも嘘でもない事は、紅羽の深刻な口調と態度から疑いようも無い。内容があまりに高標にとって突飛なものであったとしても、だ。敢えて相手の顔を見ないまま、紅羽は言葉を続ける。
「多分ここは、人の記憶とか精神とか、そういうモノに干渉してくる空間なんだと思う。確証は無いけど、おれのそういう勘は当たるから」
これまで二人が巻き込まれた案件の数々を振り返れば、紅羽の勘が信じるに値するものだという事実は高標にも異存はなかった。
しかし、黙って聞いていた男は説明を終えたそのタイミングで、徐にこう尋ねた。
「なぁ、もう笑ってもいいか?」
「……好きにして」
承諾を得るや否や、男の大爆笑が館に響く。それまで押し黙っていたのは、笑うのを堪えていた以外に理由は無かった。居た堪れないといった面持ちでその笑い声を聞く事しか紅羽には出来なかった。だから言いたくなかったのに、と思うも後の祭りである。
「いやぁ、傑作だ。こんなに笑ったのは久しぶりだな」
目尻に浮いた涙を拭う。指をそのまま白く形の良い顎にやって、俯いた顔を強引に自分の方に向くように上げる。
「この異界はアンタが見てた夢と同じっていうなら、俺とアンタはここで将来を誓い合った仲って事になるのか? 本当に傑作だなぁ。そういう風にここで過ごせって?」
「冗談じゃないよ。なら、何? 夢の通り、おれに殺されるつもりなの?」
「アンタが、俺を? そうしようってんなら逆にやり返してやるよ」
「それはそれで嫌なんだけど」
「何だよ、ツレねぇな。俺がそういう奴だってのは知ってるだろう?」
己の眼帯を示した。元は異能の力を宿していたという眼球を抉った理由は、それに目を付けたレッドブランチの思惑から逃れる為だ。自身の命を優先させる高標の選択は紅羽にとっても理解が及ぶものだった。彼の人柄を含めて納得している。
「それにしても、へぇ、アンタが俺に、なぁ……」
それでも上機嫌に高標は唇の端を釣り上げる。紅羽の語った夢の内容と現状が、不謹慎と云えども彼をそうさせていた。
実情がどうであれ、『将来を誓い合った仲』というのは深い関係性が前提のものだ。紅羽にとってその相手が自分であるとは。相手にとって己という人間の存在が占める比重の大きさを目の当たりにし、それが単純に嬉しいというよりは、優越感に近い感情を抱いているのだ。
そう感じるのが菅原 高標という男だった。殺しても大人しく死ぬような男ではない事は、彼と共に過ごしていた紅羽が誰よりもよく分かっていた。
「君が相変わらずの君で何よりだよ」
諦めにも似た溜息を一つ吐いて、今度は自身の意思で顔を上げる。深紅の双眸は相手の瞳をしっかりと見詰めていた。
「何にせよ。ここにずっと居たくないっていうのは君もおれも同じだろうから……一緒にここを出てくれるかい?」
問い掛けの体こそ為しているが、答えなど分かり切ったものだった。高標は不敵に笑ってみせる。
「レディにそう言われちゃあ仕方無ぇな」
「頼りにしてるよ。ナイト様」
芝居掛かった口振りと動作で差し出された高標の手を紅羽が取った。そうした事で、高標の目にはより鮮明にこの館――異界の像が結ばれる。彼にとっては館の全てが初めて見る筈のものだ。しかし、何とも言い難い懐かしさのようなものが胸に迫る。これが異界の影響に因るものだと脳は理解しているが、それでも感傷は拭えない。だからこそ、この場所が異界と呼ばれる所以なのだが。
バインダーよりも異界の影響を受けやすいシフターである紅羽は、どれほど浸蝕されているのか。一抹の不安を払うように、握る手に僅かながら力を込めた。
エントランスを出ようとして、紅羽は己の手首を見て「あ」と小さく声を漏らした。
「腕時計、動いてないや」
左手に着けた華奢なデザインの腕時計は全ての針が静止したままの状態になっていた。時間の確認をしようにもこれではどうしようもない。
「それも異界の仕業か」
「多分ね。気に入ってたのに、壊れたみたいで何かやだなぁ」
「外しとくか?」
時を刻むという機能を失ったそれは最早ただのアクセサリーだ。けれど紅羽は表情を曇らせながらも首を横に振った。
「ううん。失くしてもやだから、着けてる」
腕時計は紅羽が高標と出会う前から着けているものだ。まだ高標と出会う前、一年だけの彼のナイトであった人物から贈られたものだった。慧眼同盟、もとい三日月財団とも縁のあった人物の事は高標も知っている。腕時計についての経緯も当人から直に聞いた。曰く「頼もしい後釜が来るまでの虫除け」の心算だったらしい。
「そうか。まぁ好きにしろ」
紅羽が腕時計をそれなりに大事にしている事もまた知っている。そういう所がそそると、思っている己が居る事も高標は自覚していた。

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