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Final chapter『イグジット』

脱出の為、再び足を踏み入れたエントランスホールは酷く様変わりをしていた。
絨毯は踏み躙られて変色し、調度品は無残にも倒されその瓦礫が散乱している。何よりあの時の部屋と同じとは思えない程に漂う空気が違う。重く、禍々しいという言葉がこれ以上ない程に相応しい。この部屋が言わば異界の最深部であるのだからある意味当然なのかもしれないが。
その中にある二つの人影を高標と紅羽は見た。片方が玄関の前に立っている。一人扉を開けようとするも、その背中にもう一人の手によってナイフが突き立てられた。
『置いていくなんて許さない』
崩れ落ちた一人に向けられた悲痛な叫び。声の主は愛しい相手が自分を捨てて去ってしまうという耐えがたい苦痛に涙を流していた。震える手でナイフを握るのは紅羽、倒れ伏しているのは高標――それぞれの幻影だ。
目の前で繰り広げられる惨劇は今まで紅羽が夢で見続けてきた悲劇のそれだ。同時に館に捕らわれた多くの者達の末路でもある。改めて目の当たりにした光景は嘗ての夢と同じだが、今はそれまでと違う事が一つある。握り合う手に少し力を込めた。
「この視点から見たことは今までなかったんだけど。傍ら見ると、倒れてる君って変な感じだね」
多少強がりもあるだろうが。俯瞰して見て初めて、どうにも滑稽だと思ったのもまた事実だった。この男に似合わないにも程がある。
「アンタ、こんなの見せられ続けてたのかよ」
高標からすれば、ずっと話には聞いていたけれど実際にその光景を目にしたのは初めてだった。しかし声には嫌悪や恐れよりも呆れの色の方が
強い。「なぁ」と、彼は開いている方の手で倒れている自信の幻影を指差して紅羽に尋ねる。
「あそこで倒れてる俺と、今アンタと手を繋いでる俺と、どっちが本物だと思う?」
「間違える訳ないでしょう」
敢えて試すような事を言う高標に紅羽は気丈に返す。手を握る相手を間違える筈が無い。館を巡った事でその想いは一層強固なものになった。
「おれの知っている君は、おれに刺されるほどヤワじゃないし……おれを置いて一人で往くようなこともしない」
そうでしょう? と口調は問い掛けの体を取る。分かり切った答えを高標は口にしなかった。ただ頷いて、二人は固く手を繋いだまま玄関の扉へと走り出す。
この手を、その体温を、相手の心を。信じる以外に在り得ない。共に往く為に。
幻影の二人を追い越して、玄関扉の錠に鍵を押し込み、回す。開かれた扉から眩い光が溢れ――同時に館全体を揺るがすほどの悲鳴が響き渡る。すり抜けた二人の幻影は無数の黒い影へと形を変え、泣き叫びながら二人へと手を伸ばす。
『置いていくなんて』
『もう疲れたんだ』
『許さない』
『どうして分かってくれない』

『いかないで』
『裏切るなんて』
『絶対に』
『一緒に居て』
『ユルサナイ』
『ニガサナイ』
『ゼッタイ』
『――オマエ、ダケハ』
『此処ニ堕チロ』
今までこの館に捕らわれ、弄ばれてきた者達の怨嗟。二人だけの幸せから、すれ違いの末に相手を殺してしまう惨劇。二人が紡いだ悲劇的な物語。それらの蓄積こそが、この異界の源だった。多くを取り込み膨れ上がったこの異界は、そう簡単に二人を現実に戻す心算は無いらしい。悲痛な、呪詛のような声を上げながら高標と紅羽へと迫る。
「しつこい奴らだなぁ!」
「本当に」
伸ばされる無数の黒い手の影を振り払いながら進むのは容易な事ではない。手を打たなければ脱出の前に捕らわれてしまうだろう。
窮地を脱する為に、差し出すものは決まっていた。己を司る、代えがたい一欠片。
「――悪いな」
「いいよ。君はそういう男だ」
柔らかな声の許容に高標は小さく笑い、トレンチコートのポケットから鈍く光るものを取り出して、翳す。刹那、卒業式の日に高標に渡した紅羽の制服の第二ボタンが弓へと形を変えた。番える矢の姿は無い。けれど高標は迷い無く弓を構えた。
それと同時に紅羽の身にも変異が起こる。深紅の左目とその周囲の皮膚の色が漂白されたかのように透明なものへと転じる。まるで繊細な硝子細工のように美しいが、色彩の欠けた虚ろさは明らかに異常なものだった。
どちらか片方だけでは賄えない。二人が共に己の欠片を賭す事でしか脱出への道は拓けないと、異界の力を借り受ける覚悟を決めた。
「あそこ!」
硝子の瞳が一点を見据える。声を張った紅羽はそこを指差した。同じ方向を見定めた高標が彼の前に立って強く弦を引く。目には見えないけれど、確かに紅羽の与えた矢を番えて。
襲い来る黒い影達にも二人が怯える事は無い。それどころか己を餌に目前まで引き付け――不可視の矢が放たれた瞬間。道を塞いでいた黒い影が消え失せる。
しかし、それら全てを祓えた訳ではない。急がなければ再び囲まれてしまうだろう。振り向いた高標の目に、焦りながらも微かな安堵の色を浮かべる紅羽と――彼の背後に迫る凶刃が見えた。紅羽の腰にあるものとは違う、赤黒く汚れたナイフだった。
この異界が見せる幻影ではバインダーが刺される側だが、本来異界の狙いはシフターだ。異界は常に紅羽を、その目を求めている。それ故の凶行を今まさに彼へ向けようとしている。
舌打ちと身体が動いたのはほぼ同時だった。力の限りに腕を引き寄せて、扉の外へと華奢な身体を押す。己の身体を盾にして紅羽を護った。彼に向かう筈だった刃は高標のトレンチコートを引き裂き、その皮膚に歪んだ外傷を刻む。
「スガ、くん……っ!?」
二色となった瞳に驚愕と、この場で初めて見せる恐れが浮かぶ。背中に突き刺さるナイフの柄だけが視界に入る。自分自身の命を優先すると公言していた不遜で合理的な男が、己の身を挺して紅羽を庇い、傷を負ったのだ。
耳を震わせる低い呻き声に鼓動が跳ねた。自身が刺された訳でもないのに、血の気が引いて冷たい汗が流れる。大丈夫かと問おうにも声にならない。ただ震える手で高標を掻き抱く事しか紅羽には出来なかった。
抱き込んだ男の腕に力が籠められる。心配するなと、後悔など無いと伝えるかのように。
ほんの一瞬の出来事を経て、庇った勢いで二人の身体は重なったまま異界のひびわれの向こう側へと押し出され――それと同時に彼らの視界と意識は眩い白に覆われたのだった。

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