Ending chapter『同じ場所で』
Attention
Chapter 0
Chapter 1
Chapter 2
Chapter 3
Chapter 4
Chapter 5
Chapter 6
Final chapter
Ending chapter
Message
気付けば高標はベッドに寝かされていた。上体を起こせばそこは、見慣れたと言える程のものではないが確かに知っている場所だった。
三日月財団の日本支部、その医務室だ。どうしてここに、考えるまでもなく答えは出せた。今回の件は多くの異界の遺産が関わっていたものだ。そういった背景もあって保護されたのだろう。
ベッドから抜け出て立ち上がる。己の身体に違和感は無い。ポケットに第二ボタンがある事も確認した。異界と現実世界との間で起こる揺り戻しもこなれたようだと過去の経験から分かる。自身にとっても、恐らく、相手にとっても。
隣のベッドに向かえば、そこには眼を閉じたままの紅羽が居た。
「……生きてるか」
呼び掛ける声に反応するように小さく身動ぎをする。一見して目立った外傷は残っていない。
武骨な手が左頬に触れる。確かめるような手つきで触れた感触は滑らかで、少し冷えているけれどもそれでも確かに人肌のぬくもりがあった。
紅羽の瞼が震え、瞳が露になる。見慣れた美しい深紅の双珠。一瞬垣間見えた、異界を受け入れた影響の末の硝子玉ではなかった。
「おはよう」
「おう、おはよう」
起き抜けでも意識ははっきりしているようだ。互いに無事に帰還したという事実に安堵する。
「その顔に怪我が残らなくて何よりだ。しかし長い夢、だったな」
「君でそうなら、おれにとってはもっと長かったよ。でももう、あれで終わりだから、いいや……君も無事で何より」
数度瞬きをして高標を見詰める。互いの身を案じる言葉を掛け合うのは、相手を想うが故の事だ。それが意識しての事であっても、或いは無意識であっても。
「おう、お疲れさん」
労わる声色は普段のそれからは信じられないほどに優しく、甘やかな響きを帯びていた。愛おしさすら滲んだ低い声。
触れる高標の手に、紅羽もまた自身の手を添わせる。華奢な手首を飾るのは洒落たデザインの腕時計で、目立った傷跡は一切ない。
「君もね。ありがとう」
返す笑みもまた、何もかもを預け切ったような色を含んでいる。柔らかく、甘く、美しい。二人だけの空間で、幸せを凝縮したような空気が満ちていた。
しかし、何かに思い至ったらしい紅羽の表情が曇る。手を触れ合わせたまま、彼は尋ねた。
「最後、刺されてたよね。大丈夫?」
「当たり前だろ。刺されて倒れる程、ヤワじゃねぇよ。知ってるだろ」
「まぁ、そうだけどさ」
高標が誰よりも強い男だという事は紅羽が最もよく分かっている。事実、彼が異界で負った筈の傷は現実に帰還した際には消えていた。
しかし、だからといって不安を感じない訳ではない。無論信じているけれど、異界の恐ろしさを目の当たりにしているだけにその懸念を拭う事は出来なかった。ただ同時に、彼の手を放したくないとも思うのだが。
「夢の中ではずっと、君の事を刺していたのはおれだったけど。だから異界が君を刺したのを見た時は、ちょっと血の気が引いたかな」
但し、あの刃の真意は紅羽にも思い当たる節があった。
「……でも、あれって本当はおれを狙ってたんだよね」
館の最後の記憶を思い返す。本来、異界は特異な目を持つシフターを取り込もうとする存在だ。夢の中でこそバインダーが刺される側であったが、あくまでそれはシフターの精神を擦り減らすための所業である。
だから最後、異界の凶刃は紅羽を襲った。そして、それを高標は庇い、傷を負った。自責の念を覚えないでいられる程、紅羽も冷酷な人間ではない。まして相手が高標であるのなら。
「治って本当に良かった」
「今までだって全部治して来ただろうが」
「……いつも絶対治るって確証は無いものなんだけどね」
苦笑を零す。迷い無く言い切られてしまえば、どれほど不安定な状況であったとしても何とかなると思えてしまうから不思議だ。異界はそんなに甘いものではない筈なのに。けれど、紅羽が不安に思う度に言葉を掛け、手を取るのは決まって高標だった。それが頼もしくて、嬉しい。
いつまでも横になった体勢のままではと紅羽が起き上がろうとするが、その動作は頬に触れられたままの手によって制止された。
「え、ダメ?」
「休んでろ」
疲労はそれなりにある筈だ。その上、連日悪夢で魘されていたのであれば睡眠も足りていない。そうした気遣い故の行為だった。
その気持ちに甘えようとして、ふと左手に目が留まる。少し前までその薬指にあった筈のものが無くなっている事に気付いた。
「指輪。もうないや」
「あぁ、回収されてってみたいだな。残念だったか?」
「んん……異界の遺物だし。隠してたら後からフィオナさんにバレて怒られそうだし。まぁしょうがないかな」
ナイフなど他の物も財団が回収したのだろう。それ自体に異議を唱える気は二人にはなかった。異界の遺産など、持っていたらまず間違いなく碌な事にならないだろう。
ただ、どうしてか少し物寂しいような気持ちがあった。嵌めてもらった、驚く程しっくりと左の薬指に収まった揃いの指輪。
寂しげな色が顔に出ていたのだろう。伏せた長い睫毛に高標がにやりと笑う。頬を撫でながらこう言った。
「今度買いに行くか。金なら手に入るからな」
「……考えとく」
そう答えて紅羽は目を閉じた。程なくして、穏やかな寝息が小さく聞こえるようになる。
晒された美しい寝顔を高標は見詰めていた。その隻眼には頬に触れる手や労わりの声と変わらない、愛しさを滲ませたものがあった。